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山本の日記

その時起きたこと、考えた事を記録します

おめざめ

洗濯機の電源ボタンが押された音、それをわたしは聴いた。あの遠くの生活音は、洗面所から廊下を伝ってわたしの部屋に届いたのだろう


それは、私自身に意識が戻りつつあることを、教えてくれた。ある深い水の中から、筋状の光が散乱する方向、その出所に向かって漠然と、無欲に、ゆっくりと浮上していく。


浮力に身を委ねて、昇りゆく過程で、わたしは確かに意識というものを、少しずつであるが獲得していったのを実感した。その意識を持ってして


リビングのドアに手を掛けたときの、ドアの隙間から溢れでる灯油の臭気と、早くも纏わりつくような温度が、わたしに覚醒を悟らせた

また一人と店内に入っていく。入り口の自動ドアが開くたびに、外の冷たい空気が私の足下をさらっていった


狭い店中には、くたびれたジャンパーを羽織り、背筋を丸くしながら浅く腰を掛け、ぶっきらぼうに新聞を広げるおっちゃん。整ったスーツに身を通し、左手で機械的に、或る一定のリズムでマフィンを口に運びつつ、手元の画から世界を覗きみる若者と…


私は、また例の外気を、その冷たさを、足のくるぶしのやや露出したところに見出すことができた。それから、わたしは思った


ああまた、客が一人入ってきたな


ドアの付近を見ると、確かに、この狭苦しい店内に客がひとり入ってきた。彼は私の隣の、二つ椅子の丸テーブルに荷物を置き、何かを注文しにいった


わたしは、店内を改めてゆっくりと見回した。くたびれたジャンパーのおっちゃんは、相変わらずスポーツ紙のある一面に目を通していた。


しばらくして、黒いプラスチックのお盆に珈琲とマフィンを乗せた若い彼が、私の隣に戻ってきて静かに腰を降ろした


彼はコートのポケットからスマートフォンを取り出すと、イヤホンを捻じ込み、耳に掛けた。それから、スマートフォンを器用に右手で操りながら、反対の手で確実にマフィンを口に運び、時々珈琲を啜った


ああまた、1日が始まるのかと


私はそう思った

亀助が大学に入ってから、まだそれ程は経っていなかった。彼は、念願だった理科系の大学に無事入学し、満足した様子でそこに通った。将来の志望はエンジニアという、大雑把で月並みの願望を抱いていた、そんな青年だった


亀助は大学に入ってまず初めに、サークルに入った。そのサークルは年に一度の大会に向けて人力飛行機を作製する、そういう集団だった。ここで活動すること、それが彼の今後の軌跡をより確かなものにすると考えたし、何よりも、ものをつくるという行為、その対象にも目を向けた。すなわち、その青年は飛行機というものに対して、漠然とした憧憬を抱かずにはいられなかった。


彼自身、飛行機に対して幼少のころから特別な思いを持っていた。それには、或る一つの情景それが密接に関わった。


彼の父は、旅客機が好きだった。自宅のトイレや玄関や自室の至る所に、その精巧で緻密な模型を置き飾った。父の誕生日に、貯めた小遣いで小さな模型を贈ったときの、その嬉しさが滲み出た父の顔を忘れることはなかった。その父は、一度だけ、彼を成田に連れてったことがあった。当時、小学生だった亀助は、路肩に停めた車から降り、格子状の金網の向こうから、まさに翔び立つ瞬間のそれを、じっと観ていた。巨大な轟音と共に浮上する、太陽の加減で光り輝く銀の翼を、横にいた彼の父は満足そうに見つめていた。が、彼の銀翼を捉えたその小さな目、それは寂しさや悲しさのような感情を帯びていた。


その時の感情を、大学生となった今でも亀助は大切に長い間、保管していた。




入学して少し経った。それは確か、5月だった。夜の教室を貸し切り、その日は亀頭ら新入生を交えた初めての部会が行われていた。部会といっても大層なものではなく、お互いの自己紹介や、新入生との交流にほとんどの重きが置かれたものだったが、徐々に今後の指針や製作の話にシフトしていった


それから程なくして、新入生がどの班に所属するかを決定するはこびになった。製作を行う上では一応、それぞれの班による分業が常であり基本であったため、これは避けようのない事ではあった。この事は、初々しさが残る彼らに取っての、一つの洗練行事であった


それぞれの班に所属する年長の先輩方が、人数に見合わない広さを備えた教室、その指定された場所に散って行った。各々、興味のある所に直接訪問するという形になった。班は四つに分かれており、翼を作る者達、電子制御の操舵などを担当する者などであった


新入生達は、動き出した。大体皆、キョロキョロと一二週頭を回転た後に静かに席を立って、ヨソヨソと、自信の無さそうな弱々しい歩みで、僅かな微笑と共に各々の進む道を目指した


亀助も己の道を半ば決めていた。だから、平常的な胸中で、事の進行を見守っていた。座って悩んでいる様子を見せながら、同僚達の動向を密かに伺っていた。そこには詮索的な意味合いは殆ど含まれおらず、単純な好奇心からだった


亀助は、翼を造りたかった。それは今、この話が持ち上がったときに、初めて生まれた衝動ではなかった。それは当然のことのように彼の心の一部に居座り、永い年月をかけて、ゆっくりと鋭く磨かれた鐘乳石のように、一途で純情な想いからなるものであった。


それにも関わらず。結論から申し上げるに、彼が翼を製作する班に所属することはなかった。あれ程に強固に育まれた想いを持っていても


亀助があの時座って見ていた状況、それはある程度予想できたことだった。翼班を志す同僚が多く集まっている光景を。そして、その皺寄せは突然のように、他の班を圧迫しているように、彼は感じた。というより、正しくはそう彼自身に言い聞かせた


気付いたら、亀助は閑古鳥の鳴く所にいた。翼班ではなかった。そこにいた先輩が熱心に、力強く、彼を歓迎し喜んでくれたのを、ある種の後ろめたさを持って聞いていた。しかし、その後ろめたさを、倒れそうな彼の心を支えまいとする強力な麻酔が無くもなかった。この彼の個人主義を否定するような例の日本人的行動は、ほんわりと甘く柔らかな、胸酔を彼に感じさせたのだった…



五月も終わり、ちょうど季節は梅雨のじめじめした季節に移り変わるところだった。本格的な飛行機製作が始まった。作業を進める体育館棟の廊下へと、梅雨空の雲間から来る僅かな光が何とも、ありがたく感じられた


一ヶ月前のあの日に彼の体内に放たれた、麻酔作用は、もう全くといっていいほど彼の中には存在しなかった。ただ、別のあの感情だけが生のアロエの葉を嚙った後のように、渋く、苦く後に残ったようだった


作業帰りの電車、彼は皆と反対方向の電車だった。独りになると、少し自由を取り戻せた気がした。明るい灯りを点けた民家が後ろ後ろへ流れていくのを何も考えずに眺めていた、そこを唯一、動かず留まっているのは一面の夜闇だった


そんな事を繰り返していると、夏が終わり、あるようなないような秋が過ぎ去り、冬が訪れた。あの感情は、時間と共に徐々に取り去られ、その代わりに現状に対する満足感に変異していった。時の流れは、もはや反則的なもののように感じられた。


癒えた傷の下に、あの日の想いをも置き去りにして、季節はまた一つと進んでいった

昨日のお話

昨日のお話。

 

私は、たしか10時くらいに起床した。33分の電車に乗らなければバイトに遅刻するのというので、そこらに転がってる服を着て、洗面台で口を濯ぎ、慌ただしく家を出た。

 

私の家は五階に位置した。このマンションにおける五階は、権威というのは大袈裟だが、それなりの価値はあった。というのも、11階建てのこの建物は、一階、五階、九階の三つのフロアにしかエレベータが停止せず、その他の階層は快速列車の通過待ちを見送ることしか叶わなかった

 

玄関のドアを開けると、中途半端に履いた靴のつま先を、堅い地面に叩き付けながらーその音は玄関前のエレベータホールに響き渡り、下へと続く、暗く、冷たい印象を思わせる階段に吸収されていった。

 

私はエレベータのボタン、その下向き矢印に軽く触れた。下のモータが慌ただしく回転し、強靭なワイヤてわ函を引いた。九階から五階へとそれを手繰り寄せるときに発する特有の音が、私の目の前のドアの奥にある、箱が運動し描く軌跡、その空間を支配しているのを感じた

 

私はエレベータに乗ったまま一階へと降りて行った。厚みのあるエレベータの扉の中央には、二枚の縦長の格子状のスリットが刻まれたガラスがはめ込まれていた。エレベータが徐々に減速しピタリと停止した時には、内部から、そのガラスを通して一人の女性を確認することができた。その茶色の髪の長い女性はうつむいて何かに考え事をしているようだった。一階のフロアに差し込む朝日が、その茶色の髪を一層に際立たせた。

 

扉がゆっくりと開いた。エレベータの中から、一歩踏み出そうとした私をつゆ知らず、その女はまだうつむいて扉の前に立ち尽くしていた。恐らく、エレベータが到着したことに彼女は気づいていないのだろう。別にこれは日常的に、頻繁とまではいかないも、起こりうることではあった。それは、一階の郵便受けからのチラシや、便りを、エレベータを待ちながら確認する主婦によく見られるそれだった。

 

ただその女は、何も、一切を手にしていなかった。ただただ、下を見つめており、その表情は、内部から確認できなかった。

 

エレベータの扉が開いてから彼女がこちらに気づくまでの時間、それには感覚的にも、物理的にもさしたる時間を要さなかった。

 

彼女はゆっくりと顔をあげて、その全容をついに明らかにした。まんまるの目に、小さな口、年齢はよくわからなかったが、二十代後半くらいにだろうか。そう、この一連まではありふれた、月並みのものだったが・・

 

 

しかしその女は、一も動かなかった。私を認識しなおのことも。そこには、一切の悪意はなく、ただ好奇な目で、たいそう不思議そうに私を覗き込む瞳だけだった。その目元は少し笑っているかのようだった

 

 

暫くして、ふと夢から醒めたように彼女は身体を引き、私が通る道を作った。それまでの時間は物理的な時間にすればほんの一瞬の出来事であったが、それは極限まで引き延ばしてもなお高密度を保つ、未知の物質のような、時間の弾性的な側面を、私に提示した結果となった

 

 

駅に向かうまで私は歩きながら考えた、あの女は誰なのか?見かけたことがあったか?いや、ない。近所の友人の妹さんが大人になったせいで分からなかったとか、その程度だろうとテキトウニ、そう結論付けた

 

 

そして、今日になって突然母は私にこう尋ねた

 

「昨日、エレベーターであんたのことを外に出さなかった変わった女の人みかけなかった?」

 

「え?」私は眉をひそめて言った

 

私は、これをベットに横になりながら、てきとうに聞いていたが、最初はその内容が突飛過ぎて全く頭に入ってこなかった。「あなたのことを外に出さなかった人」。母はたしかにこの通り言葉を発したと思う。この奇怪な言葉「外に出さなかった人」………私はエレベーター内で誰かに幽閉されていたのだろうか?それも昨日?

 

 

それから間も無く、昨日のあの女性のことを思い出した。どうやらその女性は、母と同じ職場、近所の小学校で働いており、たまたまこのマンションに用があったというのだった。

 

 

その女性は私の母にこう言ったという

 

「多分息子さんでしょうか?そっくりでした」と

 

 

 

 

 

 

 

お昼きゅうけい

私は休憩室で、気まづさを紛らわすかのように静かにカップ麺をすすっていた


休憩室、そこは隅に自販機と、やや大型のテレビが置かれていた。四角のテーブルが二つ、それぞれに四つの椅子が備え付けられていた。簡素だが温かみを感じる蛍光灯の光が、私のささやかな昼食、それに華を添えてくれた


私の横のテーブル、そこには「総料理長」が昼食を取っていた。その昼食は、綺麗な彩色の御膳だった。この突然、稀に現れる老人、それが総料理長という名誉ある称号を所持しているという事実を知ったのは、つい最近のことだった


恐らく、私だけが感じてるであろう鉛の様な空気感、それを取り除いてくれたのは私自身の行動だった。この行動の出処は、このお偉いさんに対する媚売りという類のものではなく、ただただ、その場凌ぎであったのは勿論である


「テレビをお付けしましょうか?」私は恐る恐るそれを尋ねた

「そうそう、さっきから付けうと思ってるんだが、ピコピコがないんだよ…」今にも消えそうな声でボソボソと、その総料理長は呟いた。その声は、シャボン玉のように繊細で、吐き出されると直ぐに破れてしまった


私は、ピコピコというのが何を指すかは理解できてはいたが、それが遠い異国の妖しげな、奇怪な響きの言語のように感じた。幸いにも私はリモコンの位置を前もって把握していた


「ここにあります」と一言、テレビの裏の隙間にあるそれを取った。


「休憩室」をよく利用するならば、これは一般教養かつ必修であったが、ホテル内の様々な店を包括的に支配する総、料理長は幸いと言っていいのか、その知識を持ち合わせていなかった


電源を付けると、休憩室が新たな、これまでになかった活気を帯びた。真っさらな空間、そこにお昼担当のニュースキャスターが一人。我々が生きる日常、それに全くもって縁も、興味もなさそうな整った美人が、淡々と原稿を読み上げた。


私は、電源を付ける前にある一つの問題を危惧していたが、全くその通りになった


キャスターは都政のホットな話題をちょうど報道していたところだった。私は、なるべく政治的な話題は極力避けて通りたいと考えていた。というのも、政治について疎いという自身に対する不信からと、地下二階の閉め切ったこの簡素な「休憩室」で総料理長と政治のあり方について熱い議論を交わすことについて、滑稽だという感情を少なからず抱いたからである


私は、彼がテレビの画面から目を逸らし、優美で可憐な御膳に目を移行し、右手ー箸を持つ手が、御膳の右端の麻婆豆腐に動こうとしたその刹那の、そのほんの初期段階を見逃さなかった


「ここの麻婆豆腐は逸品ですよね」

「私もそう思うよ」と一言、彼は慎重に箸で、今にも崩れそうな豆腐を掴み、ゆっくりと口に運んだ


その所作は、熟練の細工師のような繊細さと大胆さを同時に兼ね備えているようだった。ゆっくりと、今尚動く口元は、顎の上で明晰な頭脳を有する舌の細胞一つ一つが、綿密で厳格な体制のもと審判を下す手筈を整えているように思えた


「うん」総料理長は小さく頷いた


その頷きは、ことの了見の終わりを意味するのと同時に、何かを確かめるようだった


暫くして、明らかに分厚いレンズをぶら下げた、その老人がカップ麺と向き合う私に、ほとんど呟くように言った

「食は命をつくるからなぁ…」


その言葉は、殆どありきたりな栄養士が口にするそれと殆ど同じ目的を持って放たれたろうが……これほどに、これほどまでに私の内部で反芻し、力強く留まる言葉が…かつてあっただろうか

お別れ

最期に玄関先で生徒が見送ってくれた


私はこの生徒に対して、あまり肯定的な感情を最期まで持ち合わせていなかった。寧ろ、受験に失敗して痛い目にあってしまえくらい思ったこともあったかもれない。


それでも私はこの別れを惜しいと思った


それは、二度とこの少年と会うことも、言葉を交わすことは無いからだろうか?


いや、それよりもある予見、確かに迫り来る私自身の、近い未来への不安からかもしれない。太陽が西の空に沈んでいくと、まもなく月が輝き出すのをほとんど本能的に予感できるように。


近い未来、春。それは、もう直ぐそこにきていた

新小岩アタック

「天使…悪魔とか、……………………


私はつり革を掴んだ逆の手で、イヤホンを付けたまま、急いでその音量を下げた。それはほとんど反射的だった。その男の声を私は聞きたい、そう思ったのだろう。


それは、特段傾聴すべきものではないかもしれない。日常的に、日常的な空間で行われる、ほんの些細な、日常会話なのかもしれないのだから


ボリュームダウンと平行して、徐々に、前に座る二人の男女によって為される会話の一端、それがラジオの周波数をピタリと合わせたかの如く再生された


「だって森本君、新小岩アタックって…。絶対バカにしてるよね


その瞬間、狐につままれた気分になった


悪魔?天使?確かにこの辺りの会話を完全に拾えていなかったが、その後の


新小岩アタック?


その言葉を残して、それ以降二人は会話をほとんど交わさないまま、結局秋葉原で下車した


二人がそそくさと立ち上がり、ホームに降りるのを私は横目で見送りながら、目の前のその空席に座った


その席はまだ、あの慇懃そうで、眼鏡スーツの森本という男と女子大生を想わせるあの女との、歪で不恰好な会話が、あの言葉が、新雪の上の足跡のようにくっきりと、その辺りに漂い、消えずにあった


私は少しのあいだ、それについて考えてみることにした


しかし何一つとして、わからなかった。そして終いにはどうでもよくなって寝た。乗り換えの西船橋までは、まだそれなりの時間はあった


それから、完全に、唐突に私は目覚めた。夢想の世界にいた私の脳は、水を得た魚のように覚醒し、足先に冷たく乾いた空気が届くのを感じとった


私の長席の向かいの扉は、開け広げられ、外界との調和を無理して保っているようだった。その奥には、柱に括り付けられた、縦書きの、あの例の文字列を捉えることができた


そのとき私は、それが当然の、ごく当たり前の事象であるように思えた


新小岩アタック…


私はたしか、そうつぶやいた