にじゅうろくさい会社員がADHDてきな話(分類そして理想との対峙)

確かに、わたしは分類されてしまった。仕分けられてしまった。いや、これがはたして確かなのか?という議論について、わたし自身から語る事は、それはほとんどといっていいほど意味が無く、甚だ不毛であろう。

人間という存在全般において、何かに、例えば社会的に属したり、そういった事で安心感を得る、というのは往々にしてよくあることだ。乱雑に積み重なったあの広告達を、すずらんテープできゅっと縛るように、クラスターを産み出したり、そういったことも私たちは得意であるし、何より、大の好きである。

つい昨日ほど、わたしが妻から聞いたことで、人類を「前者」と「後者」に二分するというものだ。確かに、なるほどなと、物事を三つ以上に分ける事は大層複雑になるが、二つであれば造作もない。「カレーが好きな人」「カレーが嫌いな人」。いや、これでは人類を二分する事はできない。「カレーという存在を知らない人」は好きか嫌いの判断テーブルに乗らないからである。あなたが「真性包茎」か「非真性包茎」なのか?といった表現であれば問題ないだろうか?「仮性包茎」は「非真性包茎」ではあるものの、そもそもの対象が漢に限定されてしまっているので、泣く泣くアウトである。

調べていただければすぐにわかるが、この思想の提唱者である心屋仁之助は4つの質問を用意している。そして、前者後者の分類の閾値として、彼が設けた基準はひとつである。

「人の話を聞いていて、頭が真白になるか?」

一応確認したいのは、この基準がしっかりと人間を真っ二つに引き裂けているか。それについては問題なかろう。この問いにはyes/noで答える他がないし、対象も全人類に向けられている。

これら4つの質問に一つでもyes該当しようものならば、我々はこの「心屋仁之助」によって、即刻、「後者」の烙印を押される訳だ。ここではあえて、四つの質問と前者後者の意味ついては割愛する。

さて、わたしはたった今、「後者」の烙印を押される、と語ったわけであるが、ここにわたしの逆説的な意志を汲み取ることができるのだ。すなわちこれは「前者」でありたいと望むわたしの、健気すぎる哀れな純情なのである。世の中的には前者を望む後者、またその逆も然り。

私は結局、心屋仁之助の手によって断罪されたものの、幻想的な理想と対峙し、少々会話をすることができたわけだ。その点に関しては、彼に深く感謝せねばなるまい。

 

同様にしてわたしはADHDであるというこの疑念が晴れることを願うばかりである。が、大事なことは、これはあくまでもわたしにとって疑念、と評されるだけで、わたしの中で完結する、してしまう、ごく狭い世界での葛藤である。そしてこれは、わたし自身が理想と対峙しそれを求めるという証拠なのだ(文章を書くのに飽きたわたしはトツゼン筆をほっぽりなげた)

 

役員の尻を蹴りたい衝動に駆られてしまった男の葛藤

 ダボついたヘルメット、華奢なメガネのうえに覆い被さる分厚い防護メガネ、くぐもる加工音、塗装とシンナーの香り、つい先程まではそんなものに気を取られていたのか、と思うと恥ずかしくなる。 人間に突如として湧き上がってくる、情動、これは制御できぬものであり、すべての意識を差し置いてその瞬間時間期間を支配し、もうわかりましたと、すみません、と、両手を挙げて降参の意を表すると、最も自分事であったことがふと我に返って客観視できるようになる。 なぜこの様な情動、衝動が現れるのか?それは理解不能である。もうこれは“導かれる”というレベルを超越し“強いられる”のでその情動が引き起こそうとする種々の行動に対して、抗わなけばならない。そう、抵抗が必要なのである。

 

  防護メガネが野暮ったいとか、工場内がバチバチ煩いといった些細な感覚は、行動するというレベルまで昇華していくことは、まずありえないのである。あり得ないとは勿論過激な表現だが、少なくとも、この工場安全セミナーの中で、重役立ちが出席しピリつき重々しい空気感、ひきつった顔で当月の事故報告をするライン長。工場内での安全は何よりもプライオリティが高くこれに勝るものは無いというのは、この場に集い、工場のひび割れたコンクリを対の己の足で踏み締め、両手を後ろの腰の辺りで組み、その場に存在するだけで、己に刻み込まれる。小手先の安全対応だけでなく、安全の意識、安全オペレーションシステムが我々に書き込まれ、直ちに組み込まれるのだ・・・ わたしたちの眼前に唐突に一人の男、が現れ、ちょうど、わたしの前方50cmほどに立った。ヘルメットの形状が他の現場作業員と異なり、トップの部分がせり上がり通気口の様なものが流線型の連続の先にきれいに繋がっている。シャアザクの様に角を生やし差別化を図るといったパフォーマンスまではしないものの、これが平のそれで無いことは、誰が見ても一目瞭然であろう。上半身は立派な体躯なもので、現場の手練れの作業員を想わせるそれだが、下半身は作業着でなく縦のラインが入ったスラックスを履いていたからか、すっと線が細い印象を与えた。ちょうどヘルメットと合わせてもアメフト選手のようなそれが、わたしの目の前に立っている状況だ。 言うまでもなく、この方は工場長だということが、すぐにわかった。1000人を超える現場の頂天に君臨する男であり、その風格たるや、纏し気品にわたしは思わず息を飲んだ。 突如、わたしの胸をドン、と、ドンと強く一点、打った。刹那、右脚の感覚が、何とも、なんとも妙な感覚に襲われる。小刻みに震えているわけでもなく、痛みがするでなく、ただ右足が前方に、分速で言うところ2、3cmほどかわたしの意識とは裏腹に動き始めた。もう片方の左脚でこの人集りから抜けようと試みるも虚しく、ピクリとも言うこと聞かない。動かない。右脚は徐々に前進し、左足は微動打にせぬこの状況を必死に解釈をしようとしてもわたしの気持ちははやり、余計に焦る。 焦る中でわたしの冷めた一部が原因を導くまで、そう長くはかからなかった。というのも、わたしの右脚が、ジリジリ前進していた右脚が突如と地面を離れ、足の甲をピンと張り、ゆっくり後ろに引いたのである。 その所作は、弓道のそれを思わせ、わたしの足の甲はこれから何かの対象をまるで射抜くのだろうということを自覚した瞬間、眼前に心当たりがあった。 ああ、何ということだ、と、わたしは、工場長の尻を今まさにインステップキックで一発と、そのモーションの最中にいる訳で・・・いや・・今これは、たった今実感に変わったが、わたしは工場長のケツを思いっ切り蹴りをかましたい衝動に、欲求に駆られ支配されている。この地球外生命体のような得体の知れん衝動はどこから来たのか、正直今考えている暇はないしどうでもよい・・・・強いて言うなら工場長のケツがちょうど良い高さとなんともちょうど良い加減だったからで、別段大層な理由なぞないのである。ひとつ言えることは、わたしがこの安全セミナーの最中、工場長のケツを蹴りとばしたならば、乾いた音がなりひびくや、わたしのほうへ数多の視線が向けられることはほぼ間違いなく、即座失職するだろう。 ただ、そう思うや、振り上げた右脚はまた少しずつだが、なぜか屈強な男の方へとその無慈悲な歩みを加速し始めた。 死にはしないのか・・・・ わたしは吐き出すようにその場で呟いた。前では機械課の係長が改善内容を披露しており拡声音が響きわたっている。わたしがこの一途期の、ほんの一瞬の快楽を、それを手にしてもなお、自分の人生が続いていくことがにわかに信じられないのである。いや、これは明かに死に値する麻薬であり、その覚悟を持ってして、初めて成就されなければならないと・・・・ そう思った途端、わたしの右脚は力を失い、ひらひらと地面二おちた。眼前の男は振り返りわたしの尻をポンと叩くと、その場を去った。  

妻を褒めちぎろうとしたが脱線してしまった

華金たるや皆さん、いかがお過ごしでしょう?こんばんは山本です。

週末の開放感、しかも仕事始めの週というのも相まって、それはそれは格別なことと思います。最高の気分です。

わたくしも、鍵を開け玄関に到達した刹那に工場靴を身体からパージ、放出し、その推進力を余すことなく利用して柔らかいんだか硬いんだか何ともコメントのしようがない絶妙な、あのソファーに頭から、軽度に首を捻挫しつつも飛びついてはぐでっとし硬直、一時間という量の時間が無残にも霧散いたしました。

ただ、この一連をしているのは何も、記念すべき華金に限った話ではないことは、私の口から発せずとも察しがつくのではないでしょうか。

この一連が、永きに渡って、古代太古の古のその又、小野妹子が海外留学に渡ったさらにその昔、常習的な私の堕落的な生活の一部をお披露目して共感をしたいという邪な考えも勿論全くないとは言わないが…わたしが主張したいのはこの一連の行為は、ただ単に、わたくしが物事一定が大好き原理(ごめんなさいそんな言葉ないです変化を嫌う的な意で)に絡め取られているだけだということである。

原理的な観点からみると、わたしがソファーでくたばっておるのは、これは全知全能の作者視点から見ると予定通りだし、大分筋書き通りである。

わたしからみりゃざけんなこんなはずじゃあぁと両手を頬に当ててムンクの叫びっぽいお茶目をしながら、この時間を使えば簿記三級合格に一歩近づいたとか世界中のJKが歓喜する新作ボードゲームのコンセプトを考案できたかとか農家に行って収穫の手伝いをしながらちゃっかり流行りの技術を布教して回ったりだとか夜で洗濯物が湿る前に取り込んでお嫁さんの機嫌を損ねずにすんだとか、兎に角、色々何かしらの行動は取れるわけで、ちょっと後悔する訳である。

だからわたくしは、後悔を恐れるあまり、常に原理的な物語を書き殴っている得体の知れん奴に監視されているという意識を持って、そいつの想像の範囲圏外に出なければならんという、半ば脅迫的な観念に駆られて、生活を送らねばならのだろうか?そうすれば自堕落な時間が圧倒的成長!!を遂げる眩く煌びやかな時間や楽しい時間へと変わっていくのであろうか。

そんな陳腐で面倒な考えを持つ人は多くいると思うが、皆んなきまり決まって全知全能の範囲から脱出することはできないので、よし、なるほど、と、摺り足で神様に背後忍び寄り、すっと、彼の穴あきデニムだかスキーニだかを高速で引き、更にはブリーフだかボクパンだか立て続けに下に引っ張り、全恥全NOパンぐらいにしてしまっても正直、全く心が痛まんですが、わたしが直接そんな小学4年生でもせぬ愚行とも言える行動を取ったとして、彼が全知全能であることは変わりない訳で結局は各々にあるその方程式、仮定を破壊するしかないのでしょうか?わたしは殺すとか物騒で恐ろしいことはしたくないので、とりあえず彼の処遇は、暫定的ではあるが華金ですしわたしも上機嫌なのでノーパンぐらいで勘弁しておくとしよう。その代わりといっては少々何ですが、わたしもソファーの上で寂しく、自堕落をしながら飲み会でおらぬ妻の帰りを待ち、後悔に浸ろうかと、そういう所存である。

結局、ソファーに沈みながらも神をノーパンにさせるという自堕落とは程遠い、そんな華金を過ごしたが

わたしが今日本来やるべきことーそれは妻を惚気ついでに褒めたたえる文章を連ねるということで、そういう心持ちで文字を繋いでいたのですが…

というのも、せっかく結婚をしたというに友人などから何が好んで妻と結婚したかを問われても、はっきり言語化できない、という事態が年末年始に立て続けに発生したからだ。

というわけで妻を褒め讃えるお話はまた、いずれかの機会にしようと思う。

それでは、よい金曜を

巨匠とマルゲリータ①

こんばんは。ごきげんよう。山本です。

先程、帰宅して間も無く「巨匠とマルゲリータ」を読み始めたのですが、悪魔だの何だなの話になって詩人で主人公のお付きの編集者がよう分からん外人オッドアイ男に、お前はこのあとすぐに女に首を刎ねられて死ぬぞ、とひとつ予言されて、一旦は拗らせオッドアイが何かいっておりますぞ??的なノリになったものの、彼の予言通り、宣言通りにその編集者は首なしとなってしまうのでした…

わたしがこの本を購入したワケとしては至極単純、タイトルが純粋にぐっとだったからですね。ホンマにそんだけです。

が、ここまで早々に首が地べたを転がるとは思ってなかったので…まあとりあえず、続きを読み進めていこうと、そう思うわけです。

 

※タイトルはドヤ顔de①と銘打っておりますが、②があるとは限りませんので、その辺はご了承頂ければ幸いです。

 

 

あるあるをもとめて

わたしの前でお嫁様は数独に取り組んでいる。コンビニで売ってる段位認定ができる数独本で、お嫁様はコンビニでトイレを借りたついでに購入なさったのを、わたくしはしっかりと承知しているのだ。

傍のスピーカーからはTBSラジオ、ハライチのターンが永遠、流れおり、それも年越しの放送分での"あるある"ネタを108の煩悩を浄める除夜の鐘のならって、視聴者からぶん投げられる108あるあるをハライチ岩井が片っ端から不協和音的リズム感で認定していくといった内容である。

放送中のあるあるを一つだけ取り上げてみると、#大抵の唐揚げ屋金賞とりがち#というもので例の数独で大忙しのお嫁様も細々、わらい始めたかと思えばゲラゲラ笑いだしてとうとうペンををばこーーんとテーブルに投げ出してクロスワードの問題(制限時間60分)このもんだいむりーぃーむずすぎーとニコニコ嘆きをわたしに振り撒いてくれたわけだが。

そのときというのも、わたしはお嫁様の可愛さが爆ぜているまさにその最中、わたしの思考はあるあるをただ、模索していた。あるあるを渇望した。かなり乾いていた。わたしは広漠とした砂の丘にいた。フタコブ駱駝の背中、コブとコブの間にわたしの股間がすっぽり収まっていて何やらむず痒い。蒸れる。蜃気楼、空と砂の境界の靄からピンクのツタンカーメンが現れる。刹那わたしの眼前に移動、フタコブ駱駝の脚がガクリと崩れ落ちたわたしも平衡感覚を失いながら真っ逆さまに砂の上に叩きつけられる。ピンクツタンカーメンがフタコブ駱駝細長い脚を蹴飛ばすか何かをして、はては、どちらにせよ何らかの物理的暴力的処置を、この無防備な駱駝に施したのだろう。

わたしは目を開けると、顔にパックを付箋みたくぺたぺた貼り付け妻の姿があった。わたしは結局、ラジオを聴きながら、片手間に妻のクロスワードを手伝った。

 

 

 

あばよ2019

暮れの暮れ、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

わたしはというと、お年賀の品を入手し妻の祖父母の宅で座ってコーヒーを飲みながらデパ地下で買ったケーキを皆で頬張り、あたふたとふるさと納税を済ませてから年賀状を購入しにコンビニにお使いに行き、と。

そんな常々、日々の生活からは幾分か剥離した1日であるものの、想像の幸せの範疇でぴたっと収まった暮れの今日を送る私に、一通のラインが、ある友人から届いた。

その、ある友人というのは、Fという飛行男である。F氏はこの山本の日記の中でも度々登場し扱われているが(どこで登場したかはわたしも確かではないが)大学以来の友人で、ヒコーキに恋をしており、かなりそれ大層ベリーベリーヒコーキに恋をしているので重度の飛行男ある。私とF氏はこれまで何度か自転車で各地を回って遊んでおり、そういう仲である。

で、彼の紹介はここではあえて深く突っ込まずにおくことにして、届いたラインは以下を確認して頂ければ、わたしが直接語ることは一切無用であろう。

末筆ながら、年賀状の製造工場が佳境ということもあって、ここいらでお暇させて頂きます。

 

博多(福岡)~霧島(鹿児島)野宿ライド - 福地工房

 

腐らせたらよくないという発想

あらこんな時間!今晩のおかずは、えーっと、とね、賞味期限が明日の鶏のもも肉が冷蔵庫の中に鎮座しておったのでーこの鶏肉を使おう!

という脳の思考回路が開き、それは間も無く実行された。

人間とは、つくづく、成長できる生き物であるということを実感せざるを得ないのだ。というのも、わたしが何気無く今日行った行為は、かなり称賛されるべきことである。

・冷蔵庫を開けて、無意識に賞味期限をチェックした

・賞味期限切れは悪きものである。少なくともポジティブではないことを、というより、明かにネガテイブであると認識した。

・賞味期限が明日なので、この瞬間使うか、冷凍するかをせねば、ならんな。素直に思う。

上記のような判断、思考は、理性の賜物とか論理的思考とかの問題でなく、あくまでその人間の感覚の領域の話であって躾とか脳のいらん癖とか、要は癖であるのだ。今はこの例の癖を矯正している真っ只中なので、かなり称賛されるべき行為とかほざいているが、それが癖になってしまった暁には、何も感じずに私の前を過ぎ去ってゆくのだろうか。

そういえば、この癖という言葉は基本(悪)癖であり、(無意識下)に生まれるものを指すことが多いような感ずる。一方で、(グットな)癖は、習慣というような程度(意識的)に制御された、というニュアンスを含み棲み分けがなされている。こういう棲み分けは、(悪)癖である。

この悪たるや、(無意識下の!)習慣、ようは深いところに根付いた、賞味期限は悪きもの!とか、掃除機を3日かけんと身の毛がよだつ!とか、躾とかから来る慎ましやかながら地味でいい仕事をする奴らは、筋トレは人生豊かにするとか(たまにわたしもしてます)とかバレットジャーナルで日程管理して最高の自分精製しましょうとか(まえまでしてました)、そういう強い意志力が必要な度派手なハイカラさんの背後にどうしても、埋もれて隠れてしまうのです。癖という言葉が(良)をもカバーすることを願わんとす。

 

 

 

 

 

仏に内緒で、ケンタッキーにいるのはわたしである。

18:47分

ケンタッキーにいるのはわたしである。

 

こういう言い方をするに、現在、ケンタッキー店舗にはわたし以外の人間は一切存在しないという、そういう感じを受けなくもない。そうすると店内が暗闇に包まれ、カーネルサンダースの笑みが不気味に浮かび上がる。

実は書き出しの、ケンタッキーにいるのはわたしである、という三省堂の中学教材の例に扱われそうな平易な文は、ここには、もう少しばかりお化粧をこしらえる必要があるわけだ。

何故、わざわざそんな馬鹿げたことを若い貴重なたいむいずまねーでプレシャスdeゴージャスなタイムを浪費して書き、しかも無残にネットの海にザバザバそれを垂れ流し、多くの、時間という名の第一か第二か第三のそこいらの恋人を大切にする方々から多少なりとも、それを取り上げる始末であるから。それ相当の高尚な理由がなければならないと思うのは、かなり真っ当な意見である。

ただ、わたしにはツラツラとここに説法のような理由を述べている時間がない。18:51....すでにipadにタイプし始めてから時間は勿論、止まることなく足早に流れる。

 

妻には何も言わずに、ケンタッキーにいるのはわたしである。

 

これでとりあえずはケンタッキーにわたし以外の人間の生命の息吹が吹き込めるかもしれぬ。ははは。この文言を挿入した途端、気づけばわたしの横の四人掛けは歯が皆無の老人に占領されているし、そのさらに奥の窓際には疲れきったリーマンが残業規制の余波というかをもろ食らってメロンソーダ片手に泣く泣くgyoumuに取り組んでいる。いや、しかし、彼等も今晩はケンタッキー行くんで夕飯いりませんとか、そんな報告をするのは不自然である気もするし、おまけにリーマンは恐らくはメロンソーダしか注文していない。横の夕刊広げる老人なんか、そもそも、もう独り身かもしれないと思うと、この文言は一意でなく不正確な感じがしてをまたしても修正、いやお化粧せねばなんように感じたのだった。

しかも、このお化粧のままでは、まるでわたしのお嫁さんが恐ろしいもの以外の何者でもなく、わたしの一人の時間とやらを乗っとる侵略者にも、最悪、最悪の場合聞こうるわけである。寛大な妻は勿論そんな悪党でも何でもなく、わたしが全人類の中でも最も信仰する人間の一人だし、唯一、欠点という欠点を強いて挙げるならば、彼女は家中の至る所で、7年間土の中を耐え抜き日の目を浴びたセミの真似をしてしまうのである。コートやパジャマやズボンが廊下、リビング、台所、ありとあらゆる場所にすっぽり、美しいまでに、その抜け殻だけが虚しく転がっているのである。

ということで、今回の悪党は、この場合、わたしのみであるから、冒頭の文句に登場する妻には最大限の敬意と皿洗いもろくにせず一人でこそこそケンタッキーなぞで浪費し申し訳ないという後ろめたいわたしの勝手な妄想を込めて、このブログのタイトルで妻に煌びやかなお化粧を施し、現場報告としよう。19:03

 

も、もしかして、ただの反抗期?(26歳)

令和元年12月3日。

寒空の通勤、自身にこんなことを問いかけた。その問い自体はありふれたものだし、今日の今朝に限った話なぞでなく年柄年中やってる遊戯である。

「わたしは組織に向いているのか?

そんな月並みの、何時もの、内向き加減をやりながら、同時にこんな返答を期待した。

「いや〜〜ヤマモトクン。君は組織たるものには一向にむかんよね

「ですよね。僕も同感です。

 

わたしは工場の外れの門からカードリーダーを通して回転戸を潜り中に入った。今という時間が朝で、これから永らく1日が始まるという感覚が一切、自分を襲ってくることはなく、かといって何ものかに期待する感情なぞ勿論芽生ず、無糖のゼリーの中にダイブする10秒前、その寸前の人間の心境はこういうもんなのかと、一切無関係な事項を脳内で流しながら、職場の席にむかった。

オフィスに入ると、おっさんたちが壁側に一列に、ぴっちり整列して音楽に合わせて腕をBUNBUN、ブン回している。ラジオ体操。始業前のオフィスは薄暗く、ブラインダーの隙間から入り込む唯一だけが、真剣なおっさんの表情を明らかにしてくれた。席に到達するや、わたしは微秒にブスッとした声でおはようございますと一言、文字どおり告げて、反応を待つことなく乱雑にバックを地べたに置き、上着をゆっくり脱いだ。わたしの席は、研修生用の席らしく、どういう訳か向かいはグループお偉い様方が連なっていて、ちょうど日本海側の平野部からアルプスを見上げる様な格好になっておった。彼等はわたしの反抗期の帰宅少女のような乱雑な挨拶など、微塵も、気にかける様子すら無く、わたしもそのお陰もあってか特段の期待をそこに折り込む必要がないのは、気楽なもんである。いや、彼等はリズミカルにBUNBUN色々ぶん回してて忙しいもんで、反抗期少女の淡く、幼い微弱な信号なぞ受け取って暇はないのかもしれない。

私の席からみて、反対側、アルプスの左端、一人のおっさんはラジオ体操に参加しなかった。このおっさんはラジオ体操には参加しないタイプの人間だった。CX。彼の名札に、役職はそう記されていた。(現場上がりな事以外不明)アルプスは右に向かう程力が強い、そういう単純明快システムなので、CX、と銘打った50過ぎのおっさんはアルプス最弱の座にいるわけだ。CXはよく悪態をつくし、愚痴を溢すや、愚痴しか溢さず、責任の重そうな仕事なんかはシューティングゲームのようにスルリ、華麗に回避した、基本、逃げ腰だ。先ほども言ったが、このCXはラジオ体操をしない。昼飯は食堂には出向かず、プリンとシュークリームを貪り、歌舞伎揚をボリボリ、凶悪な音を轟かせている人間なので、到底、健康への関心が皆無であるから、ラジオ体操なぞしたかあないのである。

だから、至極真っ当で、よって、彼はラジオ体操を行わない。

わたしは、というと席についてからは、PCを開き、妻の好きな上司のFacebookをみていた。身体を動かすことそれ自体、とても有意義だと思う人間であったが、わたしは向かいのCXの人が身体を一切、動かさないから、と、どちらかと云うと組織的な考えにどっぷり漬かり、支配されたのであった。

 

 

 

 

 

ミニ四駆屋行きました

以前もどこかに記したのだが、私といものは、この世に生を受けて以来といもの、憧れの触手を四方に伸ばしてきた。ほんの幼少期のころはウルトラマンに、小学生に上がるとあの魔術的に球を支配するロナウジーニョに、何があったか、私自身知る由もないが..中学に上がる頃はコミケに意気揚々出陣するオタクの皆さんに人間的興味が移り、大学以降はオタクを追って入った理系学部で出逢った人間に感化され、技術をあんなに楽しそうに語るオッサンたち、彼らに純粋な羨望を向けた。

こんな日曜の昼間の真ん中らへんにこんなつまらぬことを書き記しているのは、なんとなく、久しぶりに義務的で儀礼的なブンショから解き放たれたいと願う、わたしの無意識の衝動、その一派がどうにもならんくなったという半分の愚痴に加えて、わたしの憧れが次のステージに移行しつつある一つの変曲点を迎えているような、そんな感じを受けたから、であろうか?

この次のステージへの予感、それはきまって、これこれーーが引き金となる。これとは、あの無力感と諦めである。悪い意味での諦めではない。だからわたしもこの感覚を味わうまでは、自分は確実にロナウジーニョになれると信仰しているし、それは無力感が背後から襲うまでは、夢見心地、風なびくアルプスの草原を駆けずり回っているワケである。わたしはそれなりに内向的で自分を責めがちな人間であるが、一方ではトンデモナイ幸せもんである。

少々、立ち止まって考えてみる。

わたしのこれまでの憧れシリーズを俯瞰して共通項を見出したいが、ぱっと見、彼らはなんか、なんというか楽しそうである、わたしなぞが楽しいとかそういう言葉を発する暇もなく、四隅から純粋、溢れている。

 

一昨日、わたしは妻と友人たちと、飲みの席でミニ四駆を買いにいこうという運びになった。妻とわたしはわりかし新しい経験に飢えている人種であったが、正気に戻るや、友人たちはあまり乗り気とは正直言えなかった。(ほぼ強制的に道連れにした)

蓋を開けてみれば、もうわたしがここの文脈で事実を述べる必要は感じないが、彼らは私達夫婦の想像を遥かに上回る興味を示した。店内のミニ四駆コースに張り付く玄人に前輪駆動がー摩擦がー云々、ミニ四駆のテクノロジーに彼等は惹かれた。