昨日のお話

昨日のお話。

 

私は、たしか10時くらいに起床した。33分の電車に乗らなければバイトに遅刻するのというので、そこらに転がってる服を着て、洗面台で口を濯ぎ、慌ただしく家を出た。

 

私の家は五階に位置した。このマンションにおける五階は、権威というのは大袈裟だが、それなりの価値はあった。というのも、11階建てのこの建物は、一階、五階、九階の三つのフロアにしかエレベータが停止せず、その他の階層は快速列車の通過待ちを見送ることしか叶わなかった

 

玄関のドアを開けると、中途半端に履いた靴のつま先を、堅い地面に叩き付けながらーその音は玄関前のエレベータホールに響き渡り、下へと続く、暗く、冷たい印象を思わせる階段に吸収されていった。

 

私はエレベータのボタン、その下向き矢印に軽く触れた。下のモータが慌ただしく回転し、強靭なワイヤてわ函を引いた。九階から五階へとそれを手繰り寄せるときに発する特有の音が、私の目の前のドアの奥にある、箱が運動し描く軌跡、その空間を支配しているのを感じた

 

私はエレベータに乗ったまま一階へと降りて行った。厚みのあるエレベータの扉の中央には、二枚の縦長の格子状のスリットが刻まれたガラスがはめ込まれていた。エレベータが徐々に減速しピタリと停止した時には、内部から、そのガラスを通して一人の女性を確認することができた。その茶色の髪の長い女性はうつむいて何かに考え事をしているようだった。一階のフロアに差し込む朝日が、その茶色の髪を一層に際立たせた。

 

扉がゆっくりと開いた。エレベータの中から、一歩踏み出そうとした私をつゆ知らず、その女はまだうつむいて扉の前に立ち尽くしていた。恐らく、エレベータが到着したことに彼女は気づいていないのだろう。別にこれは日常的に、頻繁とまではいかないも、起こりうることではあった。それは、一階の郵便受けからのチラシや、便りを、エレベータを待ちながら確認する主婦によく見られるそれだった。

 

ただその女は、何も、一切を手にしていなかった。ただただ、下を見つめており、その表情は、内部から確認できなかった。

 

エレベータの扉が開いてから彼女がこちらに気づくまでの時間、それには感覚的にも、物理的にもさしたる時間を要さなかった。

 

彼女はゆっくりと顔をあげて、その全容をついに明らかにした。まんまるの目に、小さな口、年齢はよくわからなかったが、二十代後半くらいにだろうか。そう、この一連まではありふれた、月並みのものだったが・・

 

 

しかしその女は、一も動かなかった。私を認識しなおのことも。そこには、一切の悪意はなく、ただ好奇な目で、たいそう不思議そうに私を覗き込む瞳だけだった。その目元は少し笑っているかのようだった

 

 

暫くして、ふと夢から醒めたように彼女は身体を引き、私が通る道を作った。それまでの時間は物理的な時間にすればほんの一瞬の出来事であったが、それは極限まで引き延ばしてもなお高密度を保つ、未知の物質のような、時間の弾性的な側面を、私に提示した結果となった

 

 

駅に向かうまで私は歩きながら考えた、あの女は誰なのか?見かけたことがあったか?いや、ない。近所の友人の妹さんが大人になったせいで分からなかったとか、その程度だろうとテキトウニ、そう結論付けた

 

 

そして、今日になって突然母は私にこう尋ねた

 

「昨日、エレベーターであんたのことを外に出さなかった変わった女の人みかけなかった?」

 

「え?」私は眉をひそめて言った

 

私は、これをベットに横になりながら、てきとうに聞いていたが、最初はその内容が突飛過ぎて全く頭に入ってこなかった。「あなたのことを外に出さなかった人」。母はたしかにこの通り言葉を発したと思う。この奇怪な言葉「外に出さなかった人」………私はエレベーター内で誰かに幽閉されていたのだろうか?それも昨日?

 

 

それから間も無く、昨日のあの女性のことを思い出した。どうやらその女性は、母と同じ職場、近所の小学校で働いており、たまたまこのマンションに用があったというのだった。

 

 

その女性は私の母にこう言ったという

 

「多分息子さんでしょうか?そっくりでした」と