ほうとう

それは、間もなく朝日が顔を出そうという頃合いだった。私は独り、細い四脚のコンロに薪をくべて火をつけ、震えながら両手をさすった。私の前方にそびえる雪山ー緩やかな裾野、そこから続く急峻な線が暗闇を切り裂き、天高く昇っていく。目の前にある薪から昇るの透明な熱気と、山頂付近の暗闇に色濃く残る白銀とが重なり合っている様子を、ぼんやりと私は眺めた。この熱が、この広大な大気に果敢にも挑み、あの白銀をも超えて昇っていくと思うと、火葬される人間の魂も、さぞ報われることであろうか

 

 

私は、この時もまだ、ある不安を抱えていた。しかし・・・この現在の私の気持ちは、明らかに、迷惑をかけた人間に対するものではなく、私の業を知ったであろう人間に対するものだった・・・私は眠れずに、まだそこに立っていた。

 

 

暫くすると、向こうの方の砂利を踏む音が近くなってくるのが分かった。その足取りは、少しずつこちらに向かっている。その音の方向は、私たちが寝泊まりする小さな山荘からだった。

 

 

私は、暗闇の中に、確かに一人の人間を認めることができた。それは、今の心境に直接的な火種を与えた人物であった。私はすぐに身体を前に直して、あの美しい稜線を備えた山をみた。しかし、薪火から放たれる透明な熱気が稜線をぼかし、不協和音のように感じられた。そこには、火葬された死者への思いなどは皆無で、それこそ天高々と消えて行ったことだろう

 

 

彼は、昨晩の皆で作ったほうとうの残りを、小さな土鍋に入れて運んできたようだった。何も言わずに、私の前の火のともるコンロに金網を置き、土鍋を置いた。我々はしばらく、静寂を極めた。そして、その静寂の中から、万事が認める自然さをもって、会話が切り出された

 

 

「明るくなってきたな、もうあさか」

 

「起きてたんですか、まだ」

 

「俺も、ご来光をちょうど拝もうと思ってな」彼はわざとらしく笑って、いった

 

 

暫くすると、土鍋のほうとうが煮える音がした。太陽は裾野からほんの少しだけ顔を覗かせて辺りを照らし始めていた。煮立ったほうとうが朝日の細い線に照らされたのを私はみた。その光景は、私の喉奥のあの酸味を・・数時間前の私の酒の席での失態を思い起こさせた。

 

 

私は、朝日に顔をしかめながら、一心にほうとうにかぶりついた。太いほうとうは、私の喉の奥の酸っぱさも綺麗に絡め捕り、あの強い不安も、不快感をも癒してくれるようだった

 

 

 

 

 

それから、何日か経った。私は卒業式後の懇談会を足早に、退出しようとした。もう多分未練はなかった。もう恐らく、二度と会うことのない、修士の先輩方にろくに挨拶もしなかった。しかし、同時に何かしらの打算的な淡い期待が・・・私の中にないとは言えなかった。

 

 

分厚い豪奢な扉を開け、私は広い廊下に出た。それからすぐにホテルの従業員に番号札を渡し、荷物を受け取った。私は颯爽と廊下を歩き、エスカレータの方へ向かった。

 

 

そのとき、私の前方、遠くの向こうのトイレの方から、ひとりが歩いてきた。その歩みは大胆で、繊細なホテルの絨毯と、見事な調和をみせた。私は、歩みを止めることなく進んだ。あの夜を脳裏にしっかりと、描きつつ。砂利道をゆっくりと、着実に進む、あの足音を、あの素晴らしき記憶の一端に触れながら

 

 

私を乗せたエスカレータは、私の意志にはまるで無関心に下っていく。後ろをゆっくりと、一瞬振り向いた私が見たものは、動く段に乗った、重たい空気達の行列だった。私は、彼らとともにロビーに降り立った。