山本の日記

その時起きたこと、考えた事を記録します

つけ麺屋一燈で記す

究極の休日とは何だろうか?そういうことはポカンと口を開けて虚空を見つめ、過ぎ去る時間を肌で感じながら、誰もが一度か二度は考えるかもしれない。

休日が精神、肉体面の休養のみを目的とするならばゴロンと横になって本でも読めば万事解決じゃないですか。本でも読んでれば、日々の取引先や上司や、そういったものから少なからや解放される。

いや、待てよ、と。人間様は強欲だからもっと欲しい、そんじゃあ、物足りんと思う訳である。肉体面と精神面の休養は当然越えてくるラインであって然るべきで、それ以上を御所望のようである…サハラ砂漠で乾からびて、今にも死にそうな半亡者が思うのは、サッポロ黒ラベルが飲みたいとかプレモルが飲みたいとかそういう願望であって、決して水など、彼らの眼中にないのである。

ということで、とりあえず、人間様はそれはそれは欲張り困ったちゃんで、休日に休日以上の価値を求めがちである。でもそれは仕方ない。現代の"らいふわーくばらんす"とやらの"ライフ"の皺寄せが全て休日に殺到し、群がり、新小岩麺屋一燈みたく、地獄絵図そのものの形相を呈しているからである。わたしは今、麺屋一燈のこの理不尽な、しかし公平な行列の中でこうして炎天下、ブログを綴っている。

いつしか私様はこの行列の果てに辿り着き、あの脂っこい引き戸をひいて門をくぐり、日本一だかのつけ麺にありついたとしても決して満たされることは無いだろうな、と。だから、こうしてこういう意味不明な事を書いていると、私がこの行列の中にいる意味は、いよいよ希薄になってくる。ここにいる大半の人間が、これから一燈のつけ麺を食って美味いという漠然とした感想を抱いて、それを恐らく友人や家族みんなで共有して、楽しむのかと思う。

やっぱり、休日は自由な生産に尽きるなと思う。わたしによって生成された我が子、を通してわたしを見る。それは最も近くにいながらも、ぼんやりとした存在である自分を知ることができる、唯一かもしれない。

わたしは過去のブログを、後々さっと目を通すことがある。文章の読みづらさや意味が通っていなかったりも勿論、表現の稚拙さや抽象的だったりも手伝ってか、正直、生産者であるわたしですら意味が掴めない時がこれはこれは、結構ある。無責任かもしれないがそれを書いた身に覚えがない。これはわたしが忘れっぽい人間なだけか、それとも、自分自身が絶えず変わり続けているというのも、大いにあり得るかもしれない。

それでは、よいgwを

 

--------追記-------

ちゃんとしたボードゲーム(ゲームマーケットに出品するレベル)を作ろうと画策中なので(今思い付いた)、人員募集中!!(絵かける人特に)