百足

人はよく吐き気を催す嫌悪感を示すものについて表現するときに、生理的に受け付けない。というような類の表現をするかと思います。その物、ないしはその人、対象への嫌悪感が不明瞭で、ぼやけていて上手に説明出来ないときの逃げ道としても、我々はこの表現を少しばかりお借りするのかもしれません。その生理的に拒否された側も、その場合、仕方がありません。おそらくはそれは日々の努力とか時間とか鍛錬とかが解決し得ないのですから。金目のものが詰まったいかにもなアタッシュケースを紳士服に身を包んだムカデに贈呈されようが、わたしの肩甲骨の辺りや湾曲した腰辺りをその百本だかなんだかの脚でグリグリねじねじされようが、わたしは百足を生理的に受け付けることは、到底無理でしょう。それは叶わないわけです。そういう意味では百足に対して若干の同情をしない訳ではないのです。

さて、私が今、現在こんな話を取り上げたのはそんなに気まぐれなことではなく、空想や妄言めいたことでもありません。日曜日、炙ってほんのり溶けたマシュマロみたいな甘い午後に差し迫る、暗雲、恐怖、いや事件といって殆ど差し支えないことかもしれません。ものごとは結論から取り上げることが肝要であるとわたしはある種心得ていますので、申し上げますと

 

消えました。死体が。ただ一つの脚を置いて

 

これこそ妄言と言われても幾らの否定もできませんが…正直に申し上げます。例のあのムカデに関して、昨晩の辛口のカレーと消臭剤とが入り混じったわたしのこのプライベート空間、ピッチ中を縦横無尽に駆け回っているという疑惑が生じているわけです。

九十七足として。

いや、確認しておきますが、その例の九十七足君をひっぴがえして、その白い腹から伸びる生足を一本一本丁寧に、赤子をよちよちあやすかの如く、そして紅白玉入れの如く数えた訳では、勿論ありません。そもそも、百足という生物が100本脚が生えているなんて、そんな安直な発想の元にこの件に関して、思考をしていいのでしょうか?いずれにせよ、百足の脚の数が千だろうが万だろうが、幾らだろうか、この際どうでもいいのです。大事なことは、この事件、彼が、死体となっていた彼が一本の脚を現場に置き去りにして忽然と消える、フローリングの床から。この事件が、今週だけで3回も起きているという事実です。

そうすると、彼の仮の脚の本数が残りの命の数を表していて、かつです。生理的に受け付けられぬからwikipediaで生態というか生物的な情報を得ることも私にはままなりませんが彼が仮に大きく見積もって、百の脚を備えていれば、あと九十七の命があるわけです。

そうすると、わたしはあと九十七回、もっと少なくて済む可能性も存在しますが、彼が何処か白い壁からにゅるにゅる左右に身体を揺らしながら出現する、わたしはティファールで湯を沸かし、えーーいと熱々のとっておきを彼にお見舞いして、あの長い胴体がくしゅんと丸まって要介護でもう店仕舞いする古本屋の爺みたいな背筋で仰向けになって絶命する瞬間を見送るという一連のイニシエーションをせねばらならないのです。それを考えただしたら、わたしは絶望しました。絶望ってこういう時に使うものかもしれません。だって、わたしの安息の地、そこで寝起し過ごすこの場所に、その平安を脅かすような存在がひっそりと息を潜めていて、その彼は殺されてもなおも立ち上がり、しかも残りのライフは97もあるわけですから。もういっそのことここは腹を決めて、次回の殺害の際にはお得意のティッシュを三枚でも何でも持って構えて、びゅっと掴んでぽいと捨ててしまえばいいのかもしれませんが…今でもそれはわたしにゃ到底できません。これはあの生理的に受け付けないという当初のものもありますが、なんとなく、この絶望の中でも今となってはかれも愛すべき同居人である気がした、というのもほんのりですが、あるのかもしれません。