役員の尻を蹴りたい衝動に駆られてしまった男の葛藤

 ダボついたヘルメット、華奢なメガネのうえに覆い被さる分厚い防護メガネ、くぐもる加工音、塗装とシンナーの香り、つい先程まではそんなものに気を取られていたのか、と思うと恥ずかしくなる。 人間に突如として湧き上がってくる、情動、これは制御できぬものであり、すべての意識を差し置いてその瞬間時間期間を支配し、もうわかりましたと、すみません、と、両手を挙げて降参の意を表すると、最も自分事であったことがふと我に返って客観視できるようになる。 なぜこの様な情動、衝動が現れるのか?それは理解不能である。もうこれは“導かれる”というレベルを超越し“強いられる”のでその情動が引き起こそうとする種々の行動に対して、抗わなけばならない。そう、抵抗が必要なのである。

 

  防護メガネが野暮ったいとか、工場内がバチバチ煩いといった些細な感覚は、行動するというレベルまで昇華していくことは、まずありえないのである。あり得ないとは勿論過激な表現だが、少なくとも、この工場安全セミナーの中で、重役立ちが出席しピリつき重々しい空気感、ひきつった顔で当月の事故報告をするライン長。工場内での安全は何よりもプライオリティが高くこれに勝るものは無いというのは、この場に集い、工場のひび割れたコンクリを対の己の足で踏み締め、両手を後ろの腰の辺りで組み、その場に存在するだけで、己に刻み込まれる。小手先の安全対応だけでなく、安全の意識、安全オペレーションシステムが我々に書き込まれ、直ちに組み込まれるのだ・・・ わたしたちの眼前に唐突に一人の男、が現れ、ちょうど、わたしの前方50cmほどに立った。ヘルメットの形状が他の現場作業員と異なり、トップの部分がせり上がり通気口の様なものが流線型の連続の先にきれいに繋がっている。シャアザクの様に角を生やし差別化を図るといったパフォーマンスまではしないものの、これが平のそれで無いことは、誰が見ても一目瞭然であろう。上半身は立派な体躯なもので、現場の手練れの作業員を想わせるそれだが、下半身は作業着でなく縦のラインが入ったスラックスを履いていたからか、すっと線が細い印象を与えた。ちょうどヘルメットと合わせてもアメフト選手のようなそれが、わたしの目の前に立っている状況だ。 言うまでもなく、この方は工場長だということが、すぐにわかった。1000人を超える現場の頂天に君臨する男であり、その風格たるや、纏し気品にわたしは思わず息を飲んだ。 突如、わたしの胸をドン、と、ドンと強く一点、打った。刹那、右脚の感覚が、何とも、なんとも妙な感覚に襲われる。小刻みに震えているわけでもなく、痛みがするでなく、ただ右足が前方に、分速で言うところ2、3cmほどかわたしの意識とは裏腹に動き始めた。もう片方の左脚でこの人集りから抜けようと試みるも虚しく、ピクリとも言うこと聞かない。動かない。右脚は徐々に前進し、左足は微動打にせぬこの状況を必死に解釈をしようとしてもわたしの気持ちははやり、余計に焦る。 焦る中でわたしの冷めた一部が原因を導くまで、そう長くはかからなかった。というのも、わたしの右脚が、ジリジリ前進していた右脚が突如と地面を離れ、足の甲をピンと張り、ゆっくり後ろに引いたのである。 その所作は、弓道のそれを思わせ、わたしの足の甲はこれから何かの対象をまるで射抜くのだろうということを自覚した瞬間、眼前に心当たりがあった。 ああ、何ということだ、と、わたしは、工場長の尻を今まさにインステップキックで一発と、そのモーションの最中にいる訳で・・・いや・・今これは、たった今実感に変わったが、わたしは工場長のケツを思いっ切り蹴りをかましたい衝動に、欲求に駆られ支配されている。この地球外生命体のような得体の知れん衝動はどこから来たのか、正直今考えている暇はないしどうでもよい・・・・強いて言うなら工場長のケツがちょうど良い高さとなんともちょうど良い加減だったからで、別段大層な理由なぞないのである。ひとつ言えることは、わたしがこの安全セミナーの最中、工場長のケツを蹴りとばしたならば、乾いた音がなりひびくや、わたしのほうへ数多の視線が向けられることはほぼ間違いなく、即座失職するだろう。 ただ、そう思うや、振り上げた右脚はまた少しずつだが、なぜか屈強な男の方へとその無慈悲な歩みを加速し始めた。 死にはしないのか・・・・ わたしは吐き出すようにその場で呟いた。前では機械課の係長が改善内容を披露しており拡声音が響きわたっている。わたしがこの一途期の、ほんの一瞬の快楽を、それを手にしてもなお、自分の人生が続いていくことがにわかに信じられないのである。いや、これは明かに死に値する麻薬であり、その覚悟を持ってして、初めて成就されなければならないと・・・・ そう思った途端、わたしの右脚は力を失い、ひらひらと地面二おちた。眼前の男は振り返りわたしの尻をポンと叩くと、その場を去った。