にじゅうろくさい会社員がADHDてきな話(分類そして理想との対峙)

確かに、わたしは分類されてしまった。仕分けられてしまった。いや、これがはたして確かなのか?という議論について、わたし自身から語る事は、それはほとんどといっていいほど意味が無く、甚だ不毛であろう。

人間という存在全般において、何かに、例えば社会的に属したり、そういった事で安心感を得る、というのは往々にしてよくあることだ。乱雑に積み重なったあの広告達を、すずらんテープできゅっと縛るように、クラスターを産み出したり、そういったことも私たちは得意であるし、何より、大の好きである。

つい昨日ほど、わたしが妻から聞いたことで、人類を「前者」と「後者」に二分するというものだ。確かに、なるほどなと、物事を三つ以上に分ける事は大層複雑になるが、二つであれば造作もない。「カレーが好きな人」「カレーが嫌いな人」。いや、これでは人類を二分する事はできない。「カレーという存在を知らない人」は好きか嫌いの判断テーブルに乗らないからである。あなたが「真性包茎」か「非真性包茎」なのか?といった表現であれば問題ないだろうか?「仮性包茎」は「非真性包茎」ではあるものの、そもそもの対象が漢に限定されてしまっているので、泣く泣くアウトである。

調べていただければすぐにわかるが、この思想の提唱者である心屋仁之助は4つの質問を用意している。そして、前者後者の分類の閾値として、彼が設けた基準はひとつである。

「人の話を聞いていて、頭が真白になるか?」

一応確認したいのは、この基準がしっかりと人間を真っ二つに引き裂けているか。それについては問題なかろう。この問いにはyes/noで答える他がないし、対象も全人類に向けられている。

これら4つの質問に一つでもyes該当しようものならば、我々はこの「心屋仁之助」によって、即刻、「後者」の烙印を押される訳だ。ここではあえて、四つの質問と前者後者の意味ついては割愛する。

さて、わたしはたった今、「後者」の烙印を押される、と語ったわけであるが、ここにわたしの逆説的な意志を汲み取ることができるのだ。すなわちこれは「前者」でありたいと望むわたしの、健気すぎる哀れな純情なのである。世の中的には前者を望む後者、またその逆も然り。

私は結局、心屋仁之助の手によって断罪されたものの、幻想的な理想と対峙し、少々会話をすることができたわけだ。その点に関しては、彼に深く感謝せねばなるまい。

 

同様にしてわたしはADHDであるというこの疑念が晴れることを願うばかりである。が、大事なことは、これはあくまでもわたしにとって疑念、と評されるだけで、わたしの中で完結する、してしまう、ごく狭い世界での葛藤である。そしてこれは、わたし自身が理想と対峙しそれを求めるという証拠なのだ(文章を書くのに飽きたわたしはトツゼン筆をほっぽりなげた)