いつもお世話になっております。

いつもお世話になっております。

この書き出しが私の頭を日中の、仕事の同居人である。この書き出しが、冒頭であり、事の始まりとなり、接頭句であってバッターボックスに入るほんの直前の、屈伸運動を丁寧に行うイチローそのものであり、私が愛して止まない日々の定型句である。

はて、なんならば、私という人間はこの定型句の意味を寸分違わぬ精度で理解し、適切に運用をできる人間であるか?ことこれついては、疑問を呈さざるを得ず、何というか私は、全ての内容に対して機械的にこの句を配するのだから(人の真似をして)、私の采配について、奇怪だとか、阿保だとか、無礼とか、そう言った目を瞑りたくなるような感情を相手に抱かせてしまう、そういった可能性は拭いきれない。

もし仮に、そういったものが絶えず各地で頻発怒涛、間欠泉の如く吹き上がり、社内社外問わず、方々、顰蹙を買うようであれば、私はこの句から早々、足を洗い坊主で出頭したい。覚悟はとうにできているのだ。ただそれは私のこの句の運用に対しての、これしきの意見、それも客観的で、忖度のないピュアで八ヶ岳の夜空の如く澄んだ意見が私に届けば、の話である。この世の界隈では、タワマンから目薬、二階からほにゃらら。要は、ムリだと言いたい。

ただあくまでも想像の範疇で、私のいつもお世話になっておりますの運用が、全くもってして不自然ではない、こう評される可能性も往々にして存在するであろうから。というのも、この初句の後に続くのは自身の対応の鈍さを詫びるものや、無礼の詫び、対応ミスの詫び等が延々、続くものだから、いつもお世話になっておりますという、身を縮こませる、肩身の狭い、婉曲的な恐縮の形、この手の意を発しているのであれば、いやはや、親和性はあるのではないか。

そうとなれば、私は何の躊躇もなくこの句を乱用、いや違う、活用することが出来るわけで、相変わらずの幸せが私の手中に舞い戻って来てくれると想像すると嬉しくて、目に涙が潤って、いますぐにでも、何卒、宜しくお願い致します。

山本