亀助が大学に入ってから、まだそれ程は経っていなかった。彼は、念願だった理科系の大学に無事入学し、満足した様子でそこに通った。将来の志望はエンジニアという、大雑把で月並みの願望を抱いていた、そんな青年だった


亀助は大学に入ってまず初めに、サークルに入った。そのサークルは年に一度の大会に向けて人力飛行機を作製する、そういう集団だった。ここで活動すること、それが彼の今後の軌跡をより確かなものにすると考えたし、何よりも、ものをつくるという行為、その対象にも目を向けた。すなわち、その青年は飛行機というものに対して、漠然とした憧憬を抱かずにはいられなかった。


彼自身、飛行機に対して幼少のころから特別な思いを持っていた。それには、或る一つの情景それが密接に関わった。


彼の父は、旅客機が好きだった。自宅のトイレや玄関や自室の至る所に、その精巧で緻密な模型を置き飾った。父の誕生日に、貯めた小遣いで小さな模型を贈ったときの、その嬉しさが滲み出た父の顔を忘れることはなかった。その父は、一度だけ、彼を成田に連れてったことがあった。当時、小学生だった亀助は、路肩に停めた車から降り、格子状の金網の向こうから、まさに翔び立つ瞬間のそれを、じっと観ていた。巨大な轟音と共に浮上する、太陽の加減で光り輝く銀の翼を、横にいた彼の父は満足そうに見つめていた。が、彼の銀翼を捉えたその小さな目、それは寂しさや悲しさのような感情を帯びていた。


その時の感情を、大学生となった今でも亀助は大切に長い間、保管していた。




入学して少し経った。それは確か、5月だった。夜の教室を貸し切り、その日は亀頭ら新入生を交えた初めての部会が行われていた。部会といっても大層なものではなく、お互いの自己紹介や、新入生との交流にほとんどの重きが置かれたものだったが、徐々に今後の指針や製作の話にシフトしていった


それから程なくして、新入生がどの班に所属するかを決定するはこびになった。製作を行う上では一応、それぞれの班による分業が常であり基本であったため、これは避けようのない事ではあった。この事は、初々しさが残る彼らに取っての、一つの洗練行事であった


それぞれの班に所属する年長の先輩方が、人数に見合わない広さを備えた教室、その指定された場所に散って行った。各々、興味のある所に直接訪問するという形になった。班は四つに分かれており、翼を作る者達、電子制御の操舵などを担当する者などであった


新入生達は、動き出した。大体皆、キョロキョロと一二週頭を回転た後に静かに席を立って、ヨソヨソと、自信の無さそうな弱々しい歩みで、僅かな微笑と共に各々の進む道を目指した


亀助も己の道を半ば決めていた。だから、平常的な胸中で、事の進行を見守っていた。座って悩んでいる様子を見せながら、同僚達の動向を密かに伺っていた。そこには詮索的な意味合いは殆ど含まれおらず、単純な好奇心からだった


亀助は、翼を造りたかった。それは今、この話が持ち上がったときに、初めて生まれた衝動ではなかった。それは当然のことのように彼の心の一部に居座り、永い年月をかけて、ゆっくりと鋭く磨かれた鐘乳石のように、一途で純情な想いからなるものであった。


それにも関わらず。結論から申し上げるに、彼が翼を製作する班に所属することはなかった。あれ程に強固に育まれた想いを持っていても


亀助があの時座って見ていた状況、それはある程度予想できたことだった。翼班を志す同僚が多く集まっている光景を。そして、その皺寄せは突然のように、他の班を圧迫しているように、彼は感じた。というより、正しくはそう彼自身に言い聞かせた


気付いたら、亀助は閑古鳥の鳴く所にいた。翼班ではなかった。そこにいた先輩が熱心に、力強く、彼を歓迎し喜んでくれたのを、ある種の後ろめたさを持って聞いていた。しかし、その後ろめたさを、倒れそうな彼の心を支えまいとする強力な麻酔が無くもなかった。この彼の個人主義を否定するような例の日本人的行動は、ほんわりと甘く柔らかな、胸酔を彼に感じさせたのだった…



五月も終わり、ちょうど季節は梅雨のじめじめした季節に移り変わるところだった。本格的な飛行機製作が始まった。作業を進める体育館棟の廊下へと、梅雨空の雲間から来る僅かな光が何とも、ありがたく感じられた


一ヶ月前のあの日に彼の体内に放たれた、麻酔作用は、もう全くといっていいほど彼の中には存在しなかった。ただ、別のあの感情だけが生のアロエの葉を嚙った後のように、渋く、苦く後に残ったようだった


作業帰りの電車、彼は皆と反対方向の電車だった。独りになると、少し自由を取り戻せた気がした。明るい灯りを点けた民家が後ろ後ろへ流れていくのを何も考えずに眺めていた、そこを唯一、動かず留まっているのは一面の夜闇だった


そんな事を繰り返していると、夏が終わり、あるようなないような秋が過ぎ去り、冬が訪れた。あの感情は、時間と共に徐々に取り去られ、その代わりに現状に対する満足感に変異していった。時の流れは、もはや反則的なもののように感じられた。


癒えた傷の下に、あの日の想いをも置き去りにして、季節はまた一つと進んでいった