たちぐいそば

私は腹が減っていた。駅構内、その立ち食い蕎麦屋に、自然と足先が向いていた

 

 

まず、わたしは店の前の券売機で食券を買った。財布の中を一瞬だけ確認してから、かけ蕎麦を選んだ。物足りない気持ちを抑えながら…

 

 

店内に入り、カウンターで食券を渡すと、店主の「かけいっちょー」という威勢のいい掛け声とともに、私に対してくるりと背を向けて、手際良く蕎麦をほぐし、麺上げ網にそれを放り込んだ

 

 

店の中を見回しても、私以外の客はなかった。というのも、私が閉店の五分前に滑り込んだというのが、おそらくの理由であろうか。

 

 

しばらくすると、タイマーの音が鳴ったので、私はその温かい黒く澄んだ麺つゆの中央に沈む蕎麦を、迎い入れる準備をしていた。準備といっても御大層なものではなくて、カウンターに規則正しく並ぶ円筒の容れ物から割り箸をさっと取り、喉が乾いていたので、先程店主が出してくれた水を少しだけ、口に含ませた。

 

 

カウンターの向こう側から、指は短いが血色とつやがある両手が伸びてきた。その少し濡れた両手にはしっかりと、一杯のかけ蕎麦が握られていることだろう!

 

 

次の瞬間、私の前に開かれた世界、それは用意された台本のどのページにも載っていなかった。その世界の中央にはあるもの、それはうす暗い海ではなく、ユーラシア大陸のように堂々と圧倒的な存在感を誇り、横たわった

 

 

私が注文したのは、「かけ蕎麦」で「かき揚げ蕎麦」ではなかった。

 

 

店主の両腕が伸びてきて、「かき揚げ蕎麦」がわたしの前に収まった。そう、これはかき揚げ蕎麦。私はカウンターの向こうにいる店主をちらりと見たが、こちらに背を向けて、何やら片付けをしている様子だった

 

 

向こうのミスだろう、と私は思った。何故なら私は明らかに「かけ蕎麦」を券売機で買ったし、そもそも「かき揚げ蕎麦」は私の財布キャパを少し上回っているのだから。

 

 

しかし、向こうのミスというのが考え辛いだろうことも、私は同時に気付いていた。そもそも店内の客は私は1人、オーダーミスにしてもまず起こらなかろうに

 

 

あぁそうか…

 

 

店主への嫌疑、という思考から私が解放されるまで、少々の時間を要した。しかもそれは積極的に、店主の善意を探索した結果ではなくて、論理的な結果として漂着したものだったから…

 

 

私は店主の顔もろくに見ず、ご馳走様と一言呟いて、何ともいたたまれない気の持ちようで店を後にした