彼ら

私は帰宅ラッシュ帯の車内、そして1人の男を想像してみた。まずは1人。別に女でも、誰でも構わない。それはほとんど私にとっての全人類を、より普遍的なものを指すかもしれないから。彼はスーツ姿で、右手に過保護で頑丈そうなiPhoneを持ち、左手で革の、傷一つない鞄を持っている。何でも構わない。その鞄を持つ手は神経質な人のそれで。時々訪れる車内の揺れに備えてかやや股を肩幅くらい開いて、関節を柔らかく保ちながら、ドアの上部の電光掲示板に時折流れる駅名を、たまに見てはすぐに目を伏せた

 

彼が何を考えようが、私は一向に構わいやしない。上司のあれこれの催促に対する、程良く現実味を帯びた言い訳に頭を悩ませてるかもしれないし、地元の駅前で一杯やって帰ろうかという幸せな思いに浸ってる可能性もあるし、明日が終わればまた、一歩週末に近づいたと、自身を鼓舞しているのかもしれない。

 

兎に角、彼の考えがどうであれ、私は一刻も早くこの狭苦しい、彼の複数形である「彼ら」の充満するこの空間、そこから脱出することだけを考えた。私の目は行き場を完全に失い、両手をつり革に費やして、ぶら下がって寝たふりをする他なかった。

 

その「彼ら」に対して、憎むまでの感情はないにしろ、自分から出来るだけ遠くに、遠くの方に突き放そうとする傾向が明らかにみられた。少年のあの思春期のように。勿論、車内で赤の他人である者達と関係を気付く、そのこと自体が非現実的な格好をしていることは十分に承知はしていたが、私の一番危惧する結果に繋がるまで、実際のところ世間で言う、「関係を気付く」という大層な文句すら、もはや不要だったかもしれない

 

例えば、車内で私が少し手を滑らせてスマートフォンを落としたとして。それは「彼ら」の縄張りの中にじりじり堕ちていく。彼らの中の誰かが、素早くそれを拾って、にこりと笑顔を浮かべながら…私に優しく、それを渡してくれるだろう!!!それだけだった、それだけで私の家の敷居をヒョイと越えて、彼らはわたしの庭に入ってこれた

 

私は、彼らを手入れの施された綺麗な庭に通すと、洒落たブロンズの椅子に座らせて、熱いお茶を差し出した。精一杯の洒落と、出来る限りのおもてなしを、可能な限りのサービスを私は心掛けた。疲れ果てた、その顔は、おもてなしという白粉をして…