ドヴォルザークに煮卵を

「クラシックが流れているのも、中々ないよな」僕は隣に座る彼に、そう言った

これは、彼がこのラーメン屋のカウンターに腰を落ち着けたときから、既に感じていた底ならぬ違和感であったらしく、その源泉はまさにこの流るるクラシックであったか…と成る程、合点したようだった。目の前では店主が、綺麗とはお世辞には言えない、そのまな板の中央付近に丸々した、淡い黄金色の焼豚をどんと置き、流れるように鋭く長い包丁の刃を、さっと通した。カウンターから厨房の隅々まで見渡すと、奥の巨大な寸胴の中では、熱に浮かれて踊り狂う浦和のサポーターのような、極太の麺達の存在が認められたし、店主の額のその玉の汗を見ても、厨房の熱は十分に伝わってきた。

突然、前の少しの氷水が入ったグラスを軽く揺すりながら彼はこう言った

「実は、ね…こう見えても私は、クラシック、聞くんですよ、山本さん……」彼は自分でそう打ち明けた。彼のその口は、微かに歪んでいるようだった。しかも、彼は言葉の語尾に一々、余韻を残すのを癖としたから、それも相まってクラシックに対する自信の無さが、より一層露呈するという結果になった…

「では、向山さんは何とかーーーの8番とか、そういったものをよく聞かれるのですか?」わたしの丁寧なその言葉、その調子は、うなぎ登りにぐいぐい上がっていき、一種、挑戦的な体裁をとった。

「ーーーの8番とかはよくわからないですが…あれです、山本さん…リストですよ。リストあの繊細でキメの細かいピアノの演奏は素晴らしいです。あとは…」

彼は一瞬、斜め上あたりを見つめて、続けた

ドヴォルザークですね…」

ドヴォルザークですか…僕も聞いたことはあるが…とんでもなくこう、何と言ったらいいでしょう?破天荒というか、荒々しい火山というか、リストとは、対照的な音楽を創り上げそうなそんな方ですね……」

僕も彼の癖を真似て、わざとらしく、ため息のような、余韻を残してみせた。

それからというのも、我々はただ黙って、店主が忙しそうに麺を上げる様子をまだかまだかと見守った。それから、彼は呟いた

ドヴォルザーク…これは、まさにドヴォルザークじゃないすか…山本さん……」

店主は最後に、切った焼豚を分厚いその指で手際良く円形に並べて、丼を軽々持ち上げると、その太い両腕を此方に差し出した。丼には熱と、ある種の暴力的な何かが溢れんばかりであった…が

彼は丼を覗き込んで、力無さそうに小声で言った

ドヴォルザークに…煮卵を…」

彼のその丼には、追加で付けたはずの煮卵の姿はなかった。