いみがわからないこと

足の小指にぶつかるのはいつも空の2Lペットボトルである。いやきっとそんなことは無いんだろうがね。帰宅後の暗黒、凍てつくワンルームの床にカランコロンと大層間抜けな音が響くもので、そのときにアッと、小指をぶつけてしまったなぁ、と少しばかり遅くれてから、たしか、そう思ったのである。

でも、おかしなもので、そんな空虚なものを蹴っ飛ばしたところで、さほど、その例の小指に激痛が生じる訳でもなくて。よってわたしは小指をペットボトルにぶつけてしまってお茶目だかチャーミングだか間抜けだとかと、一々自分を評する機会すら与えられん訳であるから、そもそもこの文章をしたためているというのも中々、どうして変な話である。

例のペットボトルを蹴っ飛ばした晩の、翌朝は、仙台は冬晴れの中に、牡丹雪が舞っているような一日だった。わたしはきっと人型のシルエットがぼんやりしてよく分からない位に着込んだ。それこそ起毛の効いたエセ関西人風ヒートテックにシャツに安っぽい人口繊維のセーターにジャージにダウンと。自転車にまたがってアパート前の通りにでると、坂道をしゅっしゅと早まきでくだっていく。そのときの、わたしの神経の大多数は顔面というか、口元から鼻に至るまではマフラーで辛うじて塞がれているから、目元付近に集中する。足の小指の出番なぞ、ここでは到底ないのに、それにも関わらず、過ぎ行く景色に一向にそぐわないスピードでゆっくりと例の小指とペットボトルの情景、氷のような焦げ茶のフローリング、暗闇に灯る底抜けに明るいモニタ、それらが脳内に立ち上がり、反芻する。

これに似たようなことは、何となく、わたしの場合、日常的に起こる。どうでも良く処理されてしまうようなこと、推理小説のように意図的に隠されて、かえって目立ってしまうそんな素振りもなく、後から解を囁かれても全く腑に落ちないような、でたらめで、トンチンカンな光景、つまんねぇという感想を持つ暇さえ許されぬ、無味乾燥な画像、どうにもそれがフラッシュバックされる。

そういうとき、わたしはその人だかケモノだか知らぬ放浪者を、NHKの集金だとかお尋ね者みたく、軽くあしらって表に返してしまう。わたしには仕事があるんやと、修論の結果と原理に整合性が合ってないことに気付いてね、アンタとそれどころじゃあないやよ、とね。

ただね、わたしは凄まじい権利を、たのしみを持っている事に気付いてしまったような気がする。その例の放浪者に、名無しのxさんに名前を冠することができるわけで、ペットボトルと小指と冷気と暗闇にどんな意味があるかは知らんが。あれの類は、追われ拘束される日常にそっと差し出された、どんな意味にも変容する、一種のジョーカーなのかもしれぬ。