いんたーほん

家のインターホンの子機を、ここに引っ越して早二年経過する今になって、まさに今日、初めて使う事ができた。進歩というのは、弱小であれど、人によっては進歩となり得る。

普段の私、私はインターホンの音を聞くなり、一瞬痙攣したようにわざと体をバタつかせてから部屋の虚空の方を。何故か浮足だった埃、あの微細な繊維群を眺め、そうすると僅かな落ち着きが生じるように感じた。そのときならば埃、チリ、難なく、いちにーさんしーご!と纏めて面倒をみてやんよと、養って存じ上げますよという妙な熱狂的な覚悟に支配されるような感覚、一種の麻酔作用に似た錯覚、それら諸々に囚われながら、私の身体は結局、今度は硬直してしまう。

てな訳で、私はつらつらと言い訳がましいことを述べたのだが、要は、インターホンというものが無理なのである。てへ。仮に、近所の還暦過ぎのマダムが採れたてのじゃがいもとか根菜類、白菜、仙台名産雪菜、それらをそりゃそりゃ大層ご加護のある古の大樹に両手を回すように抱えてやってきて、それも若者の健やかなる生活を、生活の屋台骨をキチンと見直しなさいねという暖か過ぎてよもや熱湯に近い御言葉を、きっと会えばその裏側に感じることができても、かの慈愛溢れるマダムがインターホンを押した暁には、当の本人は何かに怯えに脅え口をぱくぱくさせて虚空を眺めながら嵐が過ぎ去るのを、ひたすらに、ひたすらに待つのみになってしまう。これはどうも自身の法に触れるため、何とかしなければならん。

私はどうも、この事後的な麻酔作用のおかげ様で、インターホンの子機がある廊下に、ワンルームの炬燵の中からたどり着けずにいた。これが私の前に端然と置かれた、それは明らかなる課題だった。なお距離は永久である。感覚が麻痺しながらも、野菜両手に山盛り熱湯熟熟お姉さんのためにも、あの希望峰にどうしてもたどり着かねばならなかった。勿論、音が鳴るとモニターに鮮明に何かが映し出されることは紀元前から承知していた。承知していたからこそ、とにかく、この麻酔作用に襲われても、理性を保つといか、平常心を保つというのでもなく、あらかじめ、この身体に、炬燵から直ちに脱出しドアを開け廊下に出よ!という旨の制御文を、フレンチトーストの仕込みのように前もって、十分量、染み込ませておく必要があった。

今日、祝日の月曜がこの仕込みを映えある料理に昇華させる、まさにその日となった。インターホンが鳴り響いたのは、勿論突然だった。鳴った途端、仕込みが行き届き過ぎていたな、と後悔するほどに。私の身体は、何の不自由もなく動き、モニターの通話ボタンを押した。

モニターが描いたのは、両手に抱え込むお野菜の隙間からひょいと顔を出すマダムではなく、黒いダウンジャケットを羽織った二人の男だった。この絵を見たときは妙な違和感に襲われる羽目になったが、違和感の輸入先は何処だろうかと、しかし即座にそれは氷解した。何というか、徐々に浮き上がってきたのは昭和天皇マッカーサーとの対談時のあの写真だった。二人の背丈差とか風貌は面白いくらい調和せず、しかしかえってすぐに馴染んだ。彼らのうちのマッカーサーの方は慣れた口調で、我々はイエスキリスト教会の者だと至極淡々と述べた。

それから、確か、正確なところは忘れたが、あなたの日々の忙しい生活の中で、支えになっているものは何か?というような類の質問がなされた。私はモニター越しでその質問に対し、なぜか、ここは冷静に返答をするべきだと思ったし、気付いたらわたしの口は勝手に動いていて、意識が後から慌ただしく追っかけてる形となった。

わたしの生活の支えは、ただマダムの降臨を望む心に結局は帰すのみであると。マダムはただ我々に施しを与えるのみならず、さり気無く、目立たないようにそっと、その本意をその裏側に隠すんですよ。わたしはマダムを誠心誠意お迎えする為に、今日まで自分の感覚に抗うべく、努力してきましたと。

そろそろか、とモニターに注意を向けると、玄関裏の工事中のアパートから杭を打つあのくぐもった音があるのみ、となった。