セツメイ

我々は常に、説明を強いられている。

 

何故か分からないが猛烈に皿洗いをしたくないとき、というのが存在するとしよう。普段であれば食器を下げると流れるようにスポンジを右手に握りしめ、やや中腰になりながら私の仕事、わたしの役割が始まるというのに。今日は力が入らない。

布団のほうにゆるりと導かれた私はパタリと、文字通り、堕ちた。軽く目を瞑る。きもてぃ。

崩れ落ちた身体と裏腹に、思考は活発に作用した。

私は神様お嫁様に説明しなければならない。当たり前だ。これは当たり前のことなのだ。共に生きる中での己の役割を、わたしはたった今、布団の上で、大の字になって放棄したのだ。世界で唯一尊敬するお嫁様は部屋のマネジメントを、汚くならんようなシステムを構築したり、私が全くもって出来ないお金の計算、財務も全て取り仕切ってくれる、見るだけで身の毛がよだつ書類もきちんとラベルを付けて整理してくれる、そんな途方もなく頼りのある妻なのである。あー、そうか、そう考えると私は思考を要する仕事を妻に押し付け、肉体、身体活動によって己の存在価値を見出だそうとするまではまだ良かったが、結局は布団の上でグズグズ御託を並べているだけである。ははは。

ただ、わたしのこの布団の上での御託にも意味がないと一概に、切り捨てることはできないかもれない。そう思うのだ。というのは、かの私が仕事を放棄してサボりに興じていることに対して、一種の罪悪感を覚えること事態、この演繹的な論理の前提として

妻が頑張ってるから私も頑張らなければならない。その逆もしかり

という確固たる地盤が、少なくとも暗黙の了解的にこの山本家には密かに定着しつつあるようだ。

わたしは家の仕事に役割があると先程申し上げたが、特段、会議のようなものが起こって決定がなされたわけではなくそれは自然的に決定された。それも上の前提の通りに、実直に進んだ自然作用だ。

仮に私がこのまま目を瞑ったまま朝を迎えるということになったら、すなわち、例の前提とやらを無視して皿洗いを放棄したら、何が起こるかは自明である。シンクがあふれたままだし、可愛お嫁様もわたしと暫く口を利いてくれないだろう。

話は変わるが、資本主義という社会構造は画期的なのだ。組織としても、一個人としても、己を磨き上げ、他者より優れてると思わせたり、実際に優れてる者が上にのしあがってゆく。そこには当然、その人間に一定の評価を下す人間がいるわけだ。

山本家は現在フラットな構造だ。定員は約二名。そして我々を採点する者は当然のことながら、いない。

私がこのまま布団で幸せを貪りつつも皿洗い、仕事を進ませるためには、我々を常に監視し評価してくれる信頼に足る何か、もはや人間でなくてもよいのかもれない、があればよいのだ。そうすれば、わたしが寝てるのを寧ろポジティブに考えて妻はわたしの役割を、率先してこなすかもしれない。

それか私がぬくぬく布団から妻を評すればよいのか?評価とは何か?具体的に、ありがとう!という在り来たりな言葉をかければいいのか?5ポイント付与すればいいのか?、いや、しかしそうなると、妻が皿を洗い終えるまで私は起きていなければならない。それは不可能だ。この布団の温もりの中にいながらにして、だ。そんなものは生き地獄である。そもそも、妻は私からの評などに一の興味も示さないだろう。

わたしに残された道は、説明することだ。もう強いられている。ありのままを伝えるのだ。なぜ皿を今日は洗う気が起きないのか?そんもんは知らん。わたしにもわからない。

これは説明できないことだ。わたしは殆どの事柄を正直、全く、正しく正確に伝えることができない。その手段すらもたない。理解できていないから。

おやすみなさい。