ある本を読んでいて、何か既視感をすごく感じたことがあった。ので、メモがわりに書いておく。
それは、ウィトゲンシュタインという20世紀前半に活躍した哲学者の記した言葉だ。彼の言葉はかなり理解に苦しむが、謎の魅力たるを恍惚と放つ、魔力的な文を奏でる。
残念だが、そのまま引用すると何処から引用すべきか分からないので、私の理解した範囲で噛み砕く。探究にての主張。
物的一元論(心は物の動作として捉える立場)と心身二元論(心には物の動作では考えられない不思議ポテンシャルを秘めたるものだと捉える立場)についてどちらかの二択に迫られる。この二つの中で哲学者はどうやら、どっちが正しいとかそういう議論をしている、らしい。
ただウィトゲンシュタインはこの二者択一のどちらに与するものでもなく、
この二者択一の問いを唱えてること、そのこと自体が、そもそもおかしくね??という診断を下す。
そして、その背景には哲学的像と特定のモデルとの結びつきによるものだ、とする。
哲学的像と呼ばれる「ぼんやりと思うこと」と特定のモデル「現実世界の行動や事象」みたいなものを無意識的に関連づけてしまうというか、そういう思い込みに、深みにハマってしまうというのが、先の二者択一を唱える背景にあるとウィトゲンシュタインは主張している。
先日こんなことがあった。
わたしはゴロゴロしながら本を読んでいる。
そうすると妻が、何でアンタは本ばっかアホみたいに読んでるのよ!わたしをかまってよ!と言う。
私はちょうどいいところだったので、少し聞こえないふりをした。
妻は言った。
アンタは「本をアホみたいに読むか」という選択肢と「わたしとSwitchで遊ぶか」の二択しかないのか?何でそうなんだと、どっちも両立するというか、もっとうまくやれないのか?と
ここで、妻がやったことは私を上記の二択から解放しようとする試み、挑戦だ。
私はそのとき、妻にウィトゲンシュタインをみていた、明らかに重ねていた。
妻は新しい可能性を提示してくれた。私が勝手に陥っている愚かな問題点を見つけ出し、それを教えてくれた。
その後も色々と別のことで散々怒られたが、なんとなく、悪い気がしなかった。