2・22

パン屋と本屋がまったく違うというのがわたしの見解だ。

パン屋ではパンを買うことができ、本屋では本を買うことができる。すこしわらってしまうが。当たり前だよ、と。そんなものは、捻りすぎてしけてしまった警句にすらならない。

だから、このことに関してはわたしの口から若干の説明を必要とすることは、確かである。

 

わたしがパン屋に入る、そうすると中からバターが香ってきてちょうどそれに導かれたような格好になる。

棚の盆にはコロネやパンオレザンやカレーパンや何やらが整然としている。わたしは昼なので三つか二つほど食べようと思う、ようは食べることができる量のこれは有限である。

その制約のもとで、後ろに前にバレリーナのようにクルクル回りながら塩あんぱんも気分だが、もう甘い系統は一つ選んだし...といった具合にめくるめく心地の良い選択肢に酔いしれるのだった。

一方で本屋というと、そうは問屋が卸さない。まず店に入ると今月のイチオシのようなものが並び、雑誌類の棚や小説の類の棚、学術書に新書のコーナーに写真本のエリアも、もう色々目白押しで、わたし気分はというと伊豆行きフェリーでの吐き気を想起させるものと、それでもそれらへの好奇心が複雑に絡み合って生み出される心地悪さがある。

そうして気付いたら哲学書の棚の前に立っているということが、よく起こる。

哲学書の棚の前までくれば、ほぼパン屋と状況は等しいものと考えて差し支えるない。

うわあわぁ!!方法序説も読みてぇな!デカルトは2000年位の歴史全部かなぐり捨てて何か突発的にカオスなこと言い始めたしそれもあって方法序説もざっくりでも挫折しない範囲で目を通したいしー、セネカのローマ人っぽい皮肉まみれのスパイス効いた人生哲学も爆笑もんだろうしなー、といった具合に心地がよい。パン屋的に感性をくすぐられる、最高すぐる。

 

パン屋から本屋に、そして世界やインターネットにまでそれを拡張しようとすると、わたしの頭はもう演算を停止し、それこそ思考停止に陥るかもしれない。

TwitterYouTubeも、これらを前にすると、わたしの感性はOverflowを起こしてあぱぱばへぱと言外擬音を発しながら泡を吹き卒倒、情報量の洪水にさらわれてしまう。

わたしの場合、発達障害持ちで極端に無能であるがためこれらに弱く、心地よいと感じる情報量のストライクゾーンも狭い。が、

ただいくらわたしが無能といったところで人類の多くが有能であるとは限らず、益々加速するこれら対応していけるのか、果たして発狂しないでいられるか?は、一向にわからないように思う。