竹内涼真vs.非金正恩

人として生まれたからには髪を切らねばならない。

髪を切らねばならないというので、床屋か美容院に赴くというのが一応のこの世の習わしであるが、別に必ずしもこれらに金を落とさなければならない、ということはない。

 

流石にそこらの道ゆく紳士淑女に髪を切って貰らうというのはかなり図々しいので、素人に頼むとしても友人や家族になる。寮の友人や同居してる家族なら素知らぬ顔でただでやってくれるか、もしくは高々、吉野家で牛丼並奢るとかミラノ風ドリヤ奢るぐらいで対応してくれるはずである。それにも関わらず世間の人がカネと休日を返上してまで平日出勤通学同様にわざわざ山手線に揺られ原宿の美容院に通う。床屋や美容院がプロの仕事だからというのがその最たる理由なのだろうが、それはポジィティブなプロフェッショナル依存なのか?それとももっと鬱々とした塊なのか?要するに「竹内涼真になりたい」のか「金正恩にはなりたくない」のどちらに皆のマインドが集中しているのか?

 

この二者択一に対して思うところは「そんなもんは人によるというものだ」

正しい。それはある意味で正しい。世界を竹内涼真金正恩ですっぱり二分することはできないけれど、わたし自身は竹内涼真になりたい人間が渋谷や原宿を練り歩いていると思っている。それはほとんど見かけが竹内涼真では?という人間がわんさか観測できるというだけの簡単な理由である。

ただ、「金正恩になりたくない」というマインドの人間でも「見た目は充分に竹内涼真」ということも考えられる。そうかもしれない。何なら竹内涼真を目指すのならば「竹内涼真になろう」と躍起になるのはかえって遠回りかもしれない。「金正恩からできるだけ離れる」という悲観的な信念を持つづけた結果、自動的に竹内涼真に収束してしまったという事態も考えられる。それはかなり嬉しい誤算である。

まぁでもその嬉しい誤算やらが多発するならばそれはそれで嫌な世界になる気もする。「金正恩からできるだけ離れる」ことをヘラヘラ周囲に公言しながらも実際には竹内涼真に寄せたいという願望を持につつ周りを出し抜こうと画策する輩が現れるかもしれない。そうであれば竹内涼真になりたいんやと一直線にモテようとする小細工のない人間に好感がもてる。出る杭は打たれるというが、こればかりは耐えてほしいものである。

いろいろ考えると、竹内涼真みたいな人が街に沢山いるという観測値から、彼らがどちらの条件を前提としているのか考えるのは時間の無駄であり不毛であることが分かりました。

 

ということで、でもないのですが、2021年6月19日16時31分。

わたしは竹内涼真になるために近所の床屋「カミヤ」に赴いたのでした。

「カミヤ」なる店名が神谷さん夫婦が営んでいるからなのか、「髪屋」なのか、この市町村名を一文字文字ったダジャレなのかは永遠の疑問ですが、家からあるいて30秒なのでそれもあって伺いました。

カミヤに訪れるのは二回目でした。ただ散髪してもらうのは初めてなんです。前回伺ったのは一年近く前のことです。ちょうどコロナが世間で騒ぎだして最初の緊急事態宣言が出たくらいの時期でした。ところが店に入ったわたしはすぐに追い返されてしまいました。

パーマは切れない。

扱えないということでした。

そこはかとない店のポリシーを感じてわたしの胸はこの時ばかりは大変に熱くなりました。

それでもって時は満ちました。一年経って髪の毛は全てストレートになり、パーマが解かれたのです。

今こそ全身全霊、身も心もをカミヤに捧げる手筈が整ったのでした。