歯磨き粉はもう、限界。

我が家が新しい歯磨き粉を迎える日はもうないかもしれない。

そんな不安が過ぎる夏の夜は少し涼しげだが、この手の涼みはなんとも喜ばしいそれではない。

私というイッパチの人間は歯磨き粉という生活必需品たるが「ありゃ無くなったな?」と思ったら購入を検討する訳だが。それは万人に共通したこの世の法則でそりゃ買うでしょと言った具合の冷ややかな目、なんなりを想像できる。

「歯磨き粉が無くなったな」という感覚を持つこと、これ自体は別に悪ではない。後生も大事にするであろうし、それぐらいは持っていても文句を言われる筋合いはない。

ただ問題はこの「無くなったな」という感覚で、この感覚が同居人であり家族であるお嫁様と異なることが最大の争点である。結婚がまだの人はそれは大層幸いである。是非、役所へ行くのを早まらず、冷静になってこの歯磨き粉問題について彼女と血を流すことがないように、隅々、確認を怠るべきでない。

事実として。事実として、私の「歯磨き粉が無くなったレベル」が低いことは認めよう。低いというのは、まだ残っているのに関わらず無いと判断を下すということだ。これは認める。百歩も譲ることなく普通に認めよう。よって、一方的にこの愛おしきお嫁様を責めるつもりはないし、お嫁様が悪だと声を枯らし喉を潰したい訳ではない。

ただ、お嫁様の歯磨き粉への執念、執着、愛着、がもはや歪みを伴っていること、異常とまで言えてしまうということ。

もうはっきり申し上げれば我が家の歯磨き粉チューブは4本あるもののすべてそのライフは0である。丁重にチューブの端を巻き取り伊藤家の食卓直伝の技を繰り出す。チューブも悲鳴をあげている。私はそれ毎夜毎朝、その儀を怠ることはない。

今夜も歯磨き粉のライフは0だと思い続けては早三ヶ月経った。

だだ、一方で私はそれでも何とか充分な量の歯磨き粉をブラシに確保し磨く事ができているわけで、その不思議な浮遊感といったら、散々低空飛行したものの留年せずに済んだ大学時代と何となく、重なる部分があるような気もする。なんとかなってしまった感。そもそも、事故を惹きつけてしまう体質を持ち合わせておきながら、この歳まで死ぬようなこともなく、しっかり生きているではないか。そのことにまず感謝せねばならぬ。

そこで自身に改めて問い直すとすれば、歯磨き粉、そんなものを買う必要があるか?ということである。何とかなっているという事実がある。やばいと思ってから幾分経っても、まだ歯磨き粉には呼吸があるのだ。このまま、最後まで走れるのかもしれないし、そう夢想するのも悪くはない...

そして、自ずと答えは現れたであろう。

 

やっぱり、金欠でも歯磨き粉を買ってください。買わせて下さい。