ちいさいころ、わたしは十の頃から、自分に対して違和感を感じ始めたように思う。それは、周りの環境があってそれとは永遠に分かち合えないような感覚を無制限に覚え続けているような、月並み言うと、孤独さに似たものです。ありふれたもの。

他の人間といても常に孤独に苛まれている状況を一番感じていたのは、自分が他人の話を殆ど上の空で聞いていないと感じたときであった。そのとき神経やその本体は分散し虚空を彷徨っていたし、ここにあるようで一体、何処にもなかった。

それがわたしの感じるわたしの殆どすべてであった。一切を感じていない、ということを一番強烈に感じ続けその事実に飽き果てて、疲れが微かに生じ始めたのが20前半から中盤に至るころであった。わたしは何か病んでしまっている人のようなことを今言っているが、そういう訳では全然ないです。心がそれなりに折れていると、まともに1行たりとも、文章なぞという暇と余裕の諸行を紡げないということを、かなりわきまえているからである。

 

最近、すごく嬉しかったことがありました。(それは誕生日プレゼントをもらったことなのだが、しかもその内容がかなり良かったのが、なおのこと嬉しさを大きなものにしたと思う。)

やし酒を飲むことしか能のない男が、やしの木から落ちて死んだやし酒職人を探す為に死者の街へと旅にでる、というこの話は、空っぽの頭に染み入るように入ってきて、気付いたらキーキー笑ってしまうという不思議な可笑しさをふんだんに含んでいる。

これは奇跡以上の奇跡であるようにわたしは思います。

たとえば近所らへんをてきとうに散歩しているときも、T社との仕様打合わ中も、妻と何気ない会話をしてるときも、「やし酒を飲むことしか能のない男が....」というあの独特のフレーズが頭の奥からゆっくりと立ち上がって、踵を返したように転がり落ちてくることがある。そんなときは、すべてがやし酒に呑み込まれて、当たり前にお終いになります。放棄。とくに争うこともできず、会議も終了し、歩いていてもその場で止まるし、妻との話しは電源が落ちたテレビのように中断されてしまいます。

何も感じていない中立的なあの感覚に、わたしのホームポジションに、やし酒は帰してくれるらしい。あの世界は凹凸が少なくてなだらかであるのに、千の刺激が折り重なる起伏に富む矛盾を孕みまくって矛盾が心地良すぎるあの風景は、わたしの原風景であっていてほしいと願うほどに。