倦怠感について

◽️会社に行きたくない朝からはじまる

日常生活のなかで、私たちは葛藤の連続である。それは毎日見出せることである。

例えば、朝起きたら会社に行かねばならないと思い絶望する。絶望しつつも有り合わせの力で朝ごはんでも食べようと思っても冷蔵庫には賞味期限がはるか彼方昔の鰤の切り身がちょこんと鎮座しているだけで、これといって目を見張るものは何も見当たらない。

作る材料がなければ料理することは叶わないし、材料を調達しにスーパーにいくのも腰が重い。そもそも朝っぱらで店が空いてない。かと言ってちかくのコンビニで済ませようとすれば、お財布に優しくもないし、連日の惣菜生活に健康も損なわれてしまうように感じてしまう。

もういっそのこと何も食べなくていいとすら思う。

以上のように、わたしたちは日頃、絶え間ない倦怠感や面倒くささの霧に覆われながら生活している。だけれども、もちろんその逆境のなかに正面切って佇み続けられるほど、人間は強い生き物ではない。

◽️倦怠感とは何か

ここですこし、敢えて立ち止まって考えてみたいことがある。わたしが感じるこの<倦怠感>といった感情は、一体どのようなものなのか?わたしたちは、これがすごく身近なものでありながら実のところなんだかよく理解していないのではないか?という気分になる。

倦怠感について語るときに、生理学的には身体的なものと精神的なものに由来される。身体的なものについては、疲労や病気が関連しているから、今回扱いたいのはもっぱら精神的なものによったものであることは初めに宣言しておこう。

ところで、倦怠感について深く考えるのは、わたしたちが倦怠感や怠さといった「よくわからないもの」に直面したとき、耐えられないほどの苦痛を実際に経験しているからに他ならない。

わたしたちは事実、倦怠感を伴った状況で、そのままでい続けることはしない。しない、というよりできない。

会社という他者との緊張状態の場に置かれ、忙しそうにしていれば、怠さは一時的に忘却され結果として自分のからだから排除されることを、経験として知っているのだ。

このように、わたしたちは倦怠感をその身から徹底的に引き剥がしにかかる。それは端的に気持ち良く生きるためだ。

朝起きて、仕事をしたくないという怠さを伴ったならば、わたしは会社をサボるか、または多少無理をしてでも会社に行き、徹底的に「怠さを排除しにかかる」だろう。

人間がこれほど忌み嫌い、いかようにしてでも自分から引き剥がそうとする<倦怠感>という存在は、いったいなんなのだろうか?

◽️倦怠感が現れるタイミングについて

メンタル的な倦怠感は、朝に発生することが多い。自分も今年の2月に朝起きて会社に行きたくないと思い、それから半年以上行っていない。この<朝>という時間的なタイミングはなにを示しているのだろうか?朝に特有のこと、昼間にはなくて夜間にも無いこと、これはなんだろうか?

ひとつ言えることは、朝は1日の始まりであり起点である。起点であるから、今日というその日が目と鼻の先まで迫ってきているし、今日を回避することは不可能であるようにすら感じるスタート地点である。

すごく極端にいえば手足を縛られて身動きが取れない状況のまま、今日という魔物と対峙しなければならない。

でも、ここでさらに考える必要性に迫られる。それは、

なぜここまで、今日という1日を重く受け止めてしまうのだろうか?なぜ、わたしは対峙すべき存在としてこれから始まる1日というものを捉えているのだろうか?

◽️始まりと不安、倦怠感との関係について

始まりには不安が付きものといえば、それは本当だろうか?と一旦考えこんでしまう。たしかにまるごと受け入れるのはすこし躊躇われる。

たとえば、自分が幼少から憧れにしていた仕事につけたとして、初めて出勤する日にその人の気持ちは未知に対してワクワクしていてるだろうか?それはもちろんそうだろう。自分がこの職場で世界を変えてやろうと意気込んでいるかもしれない。

そこに不安の入りこむ余地はあるか?

わたしはそこには不安の入る余地が多分に存在していると思う。

これは上の例のような<人生で初めて>のような場合に限らず、日常的に繰り返される<その日の始まり>のなかにも、同様に不安を見出すことが可能である。始まりを起点とした位置から将来を眺めたときに、なにが起こるかわからないという漠然とした不安が、そこには横たわっている。

その起点から生まれた不安が倦怠感を誘発する。

不安は不確定な因子が原因である。不確定であるに関わらず、不安だけをそこから見出してしまう人間は決してフェアな判断を下せていない。要するに、わたしたちの未来は全然明るいという可能性も、絶望的なあの朝にすら依然として残されているはずである。

にも関わらず、わたしたちはなぜ選択的に進んでネガティブなものだけを取り出して、勝手にも不安感に苛まれてしまうのだろうか?

そこには、不安により誘発された倦怠感そのものが及ぼす一つの性質が、わたしたちのその恣意的な判断に影響を与えていることになる。それは次に検討していこう。

◽️倦怠感は判断を鈍らせる

さて、さきほどは、1日の始まりに人間は不幸にも不安を見出してしまう、ということをみてきた。その不安から倦怠感や怠さが次第に誘発されるというメカニズムだった。

もう少し倦怠感の現れる瞬間について詳しくみていこう。私たちは不安に直面したとき、それを退けようとする。自分からなるべく遠くにやろうとする。そのときに、わたしたちの目の前に現れるもの、それはずばり「判断」である。わたしたちは生き残るために判断を迫られる。

倦怠感そのものが現れるのはこの判断に際してである。倦怠感は不安によって誘発されることは確かだが、不安とともにただちに現れるのではない。ここは重要である。倦怠感は不安から逃れる過程で、自分の判断を必要とする段階でわたしたちに突然襲いかかる。

そこで新たな疑問が当然のように湧き上がってくる。判断に際して、私たちはなんで気怠さを感じるのだろうか?感じなければならないのか?

それはそんなに難しいことではない。その理由は判断の決め手になるようなものが存在しないからである。判断そのものは主観的で恣意的なものにならざるを得ない。絶対的な正解がない。その判断の責任は自身にすべて返ってくる。責任もすべて自分で引き受ける必要があるのだ。それはそれは大変なことである。気怠くなるのも理解できる。

冒頭から頼りにしまくっている「会社に行きたくない話」の例を使ってみよう。朝の時点でわたしはA社との会合に漠然とした不安感を覚えたとする。そして、わたしはその不安を除去するために、ひとつの判断を迫られることになる。

その判断は、会社をサボるか、それともその会合に向けて残りの時間を精一杯使って準備に当ててなるべく不安感を減らすか、の2択が頭に思い浮かんだとする。

そしてその選択肢が頭にチラついた瞬間に倦怠感がすでに現れている。この選択すら放棄したくなる。気怠いのだ。なぜならどちらの選択が絶対的に正しいということはないのだから。正解がわからない。誰かがどちらかを肯定してくれる訳でもない。

許されるならば、いかなる判断も下したくはないのだ。判断すらも放棄したい。すべて投げ出したくなる。A社との会合という現実からも逃げて、目の前のこの二者択一からも目を背けたくなるのだ。ここに倦怠感がある。いや、もう不安はそこにない。倦怠感しかない。

そして、わたしたちは、この倦怠感からも逃れるために、できるだけ適当な判断をなるべく早く下さねばならないと感じるようになる。

そのときのわたしたちの判断のモチベーションは倦怠感からいち早く解放されることでしかない。そんな差し迫った状況下で、理性的なまともな判断が下せるだろうか?わたしたちは、この悪循環に陥った瞬間に、正気を既に失っていることになる。

倦怠感は、人間にまともな判断をさせることは許さないだろう。

◽️自由の倦怠感(日常に溶ける)

ここまで倦怠感について考えてきた。上記で考察してきた倦怠感は、何か明らかに避けたい対象があって、そこから不安が生じ、その不安を回避するために判断に迫られて、その判断の過程で倦怠感が出現し、しかもその判断そのものを鈍化させるという過程をみてきた。

わたしが次に考える倦怠感は、もっと生活の中に溶け込んだものかもしれない。

ひとつ実体験をもとにした例を挙げよう。

私は2歳の娘を寝かしつけるために寝室にいる。寝室はもう暗くしてある。わたしはただ娘の近くで一緒に横になっている。話しかけたりはしない。娘はただわたしがいるだけで安心するのだ。真っ暗だがわたしの気配を感じている。仮にわたしがこの部屋から出ていこうものなら、ただちに泣き出してしまうだろう。

わたしは娘を寝かしつける目的で、真っ暗な寝室で横になっている。娘が完全に眠りにつくまでの30分程度、実際はとても暇なのだ。スマホをいじるとライトで娘の眠りを妨げてしまいそうですこし気を使う。だから、スマホをいじらずに、暗闇で目を見開いて天井をぼっーと見つめている。

この暇な時間のなかで、わたしは今を起点とした漠然とした将来のようなものを考えることがある。娘が大きくなったらどうなるとか、そういうことも考えたりするが、わたしや妻が今後どうなっていくのか、とか、このまま体たらくな生活をして30台を消耗し続けるのもどうなんだろうと、思ったりもする。

そういうことを考えていると、わたしはすでに気持ち悪くなって吐き気がすることがある。吐き気というのは大袈裟かもしれないが、気怠さの延長として、胸に一抹の気持ち悪さを覚えるのだ。

そのときに、わたしは逆説的に無数の可能性や判断が自分や妻にも存在していることを自覚したのだ。これが自由の重みかと思ったこともあった。

私たちは常に判断の岐路に佇んでいるのだ。しかも目が眩むような無数の選択肢のなかに佇んでいるのだから、わたしは気怠さを強く感じるのは当たり前である。これが、自由の倦怠感なのだ。自由ゆえの苦しみとよく世間でいう文句である。

◽️倦怠感と自立

明確な答えのない判断を下す際に、倦怠感は必然的に生じるものである。でも、わたしたちは生きている限りにおいて、それは避けられそうにない。なぜなら、明確な答えのない問い向き合うことそのことが、人生であるのだから。

でも、本当にそうなのだろうが?

人生は「答えのない問い」に向き合うことそのことだろうか?

わたしはそれはまったく違うとここに断言したい。

人間の生活を上記のようなテーゼで語ろうとするとき、人間のなかに<倦怠感と闘い乗り越える美学>がすでに醸成され生育されつつあるのだ。判断の最中、答えのない問いと苦悶するなかで、わたしたちは倦怠感と出逢う。出逢いたくないが、出逢ってしまう。それは苦しいものだが、それに耐えてこそ、私たちは初めて自らを自立した人間であると呼称できるようになる。自信が持てる。認められるようになる。

こういった考え方の素地が、<倦怠感と闘い乗り越える美学>に他ならない。

わたしたちは以上のような「自立した人間像」を知らず知らずのうちにその内側に抱え込んでしまっている。倦怠感を持ちながらもそれと格闘して打ち勝つこと、これが倦怠感と向き合う際の大人な対応なのであり、すべき模範的な行動である。倦怠感は打ち負かすべき敵である。これができない自分は総じてまだ子供であり、自立からほど遠い存在であるのだ、といったほどに。

さらに、もう一歩進んで、これすらできない自分は駄目な人間だと思うようになることもあるかもしれない。自分が無気力でだらしの無い人間であり、自身の無能感のシャワーを全身に浴びたような気分になることもあるだろう。

そして、ここで厄介な問題が生じることになる。この自立した人間像は、自身が持っているだけでなくて、他者も持っているのではないかと、感じる点である。これは、自立した人間像という概念そのものが必然的に抱え込む一面である。すなわち、自立しているか?はたまたそうでないかは?相対的な評価になりがちである。ゆえに必然的に他者という指標が、自立の概念のなかに持ち込まれることになるのだ。

◽️他者の持つ<自立した人間像>=<倦怠感と闘い乗り換える美学>

すこし問題が複雑になってきたように思うので整理したい。

わたしたちは<答えのない問い>に向き合うときに判断を迫られて考えあぐねているときに、倦怠感に出会う。この倦怠感を感じたときに自分や社会は当たり前のように、それを乗り越えることを薦めてくる。これを乗り越えればお前は一人前だぞ!!と天の声が響くのだ。

少し例を挙げてみる。

わたしは研究生活をしているときに、教授はとくに厳しいひとではなかったが、ある飲み会のせきでこんなことを言った。

研究室には来たくなくても必ず来ること。面倒な気持ちや気怠くても、その気持ちを何とか押し殺してでも、必ず来ること。

そのときさらに教授は中高の部活の話を引き合いに出した。眠い朝に朝練に行きたくなくても、眠い目を擦ってでも朝練にいっただろうと。そのときを思い出せ、と。

これはまさに、倦怠感との闘争が美学として肯定されている典型的な例である。いわゆるところの体育会系の考え方が、倦怠感との闘争と親和性のある思想である。

そしてこのときも、わたしはこの美学にならって倦怠感との闘争を開始した。が、わたしはすぐに倦怠感を引き剥がしにかかった。負けたのだ。倦怠感を前にあえなく敗北してしまう。敗北したときに、わたしは自立から程遠い自分の存在をそこにみたのだろう。

さて、いま問題となっていることはなんだろうか?

わたしが<倦怠感と闘い乗り越える美学>を身につけてしまっていることだろうか?それは確かにそうだ。そんな物騒なものがなければ、はなから敗北も何もないからである。そもそも、わたしたちはその美学に捉われなければならない必然性は特にないのだ。

しかし、もっとも根深い問題は他者がこの美学を持ってしまっているように感じる/持ってしまっている、ことに尽きるだろう。

他人を変えるのは簡単なことではない。

貴方のよくわからない自立の像を安易に持ち出すのをやめてもらえないですか!?とお土産のお菓子を配るかのように皆のデスクに推奨してまわれば、それこそ、その本人が村八分にあうのは火を見るより明らかである。

▫️<自立>をオフライン化する

問題の行方が他者の手に渡ってしまうことほど手に負えないことはない。こういうとき、きまって匙を投げてしまいたくなるのだが、少しさきほどの問題を遡上して新しい地点からさきほどの問題にアプローチしたいと思う。

その前に、わたしたちは新しい問題をすでに発見していたのだった。それは、自立という概念に他者という評価軸が混じるとロクなことにならない、という一種の教訓である。要するに制御することが不可能な他人という存在についていちいち考えなければならないという点である。

他者のもつ自立のスローガン<倦怠感と闘い乗り越える美学>を別の何かに強制するのは不可能である。そのことをわたしたちは知っているのだ。そのことの意味はまことに大きい。

よって、わたしたちが力を入れるべきことは、自立の概念に他者という存在を含めずに確立することに他ならない。

それでも、わたしは先ほど自分で言ったことをもちろん忘れたわけではない。

自立は必然的に他者という概念を引き込んでしまうこと、それならば他者を交えずに自立を語ることは不可能ではないだろうか?矛盾しているのだ。

確かにわたしは矛盾していることをやろうとしているのかもしれない。しかし、それは自立という概念が他者と共有できるにあたって〜という前提がある。これまでの自立の概念はいわば他者と共有可能なオンライン状態であったが、それをプライベートなオフライン上に持ち込むことで、他者から引き離すことが可能である。

もう他者によって編集されることはない。要するに極めてプライベートな自立という概念がそこに浮かび上がってくる。それは他者と共有できない自分のなかでの直観のような形態をとるかもしれない。

◽️オフライン化=孤独

個人のなかでオフライン化された自立は、もはや倦怠感と直接関わり合いをもつ必然性も特にない。自立が自己のなかに組み込まれ、内在化されたのである。自立そのものが、自立した瞬間でもある。

こうして、倦怠感は自立から解放されたのだ。倦怠感と自立の共犯関係はもはや解消された。

ここで一見落着といきたいところだが、わたしたちはひとつの事実を忘れてはならない。それは<倦怠感と闘い乗り越える美学>は以前としてこの世界に蔓延しているという事実である。

わたしたち自身は自立の概念を匿って、新しい人間の自立像を建設した。でも、これは単に孤独になるということでもある。孤独を完全に受け入れることに他ならない。なぜなら、そもそもこの概念は他者と共有できずにオフライン化されたものだからである。

<倦怠感と闘い乗り越える美学>は形はどうであれ人間同士の連帯を強めるように働くのは多分間違いないだろう。そこは、孤独と反対のベクトルを持っている。

これは何故だろうか?ここからは、上記の美学が前提として倦怠感を<倒すべき敵>と捉えていることに注意して考察していこう。

◽️倦怠感は<倒すべき敵>として祭り上げられている

わたしたちは、倦怠感そのものを知ることからスタートをしたが、倦怠感が多くの人にとってなぜここまで忌み嫌われるかについて考えてはこなかった。

たしかに倦怠感は特有の怠さを身体に刻みつけるし、判断を鈍化させてしまう性質もあった。だけれども、これらの理由でここまで倦怠感が強く告発されるというのは、すこし不思議な感じがするのだ。

多くの場合、倦怠感は嫌われるどころか、倒すべき敵として認知されている。敵である。どんな敵か?<共通の敵>である。倦怠感は人類の共通の敵なのである。

わたしが共通の敵という像を思い浮かべるときのイメージをひとつ提示したい。すこし幼稚かもしれないがお付き合いいただければ幸いである。

わたしは小学2年生になった。今日は1時間目がプールの授業である。まだ初夏で水温も上がっていない。肌寒さを感じる。

わたしたちは周りの友達とプールに入る前に、あの冷たい殺菌用の?冷たい水の溜まり場?に押し込まれる。そこで頭に手を乗せて、みんなで胸まであの強烈に冷たい水に浸からねばならない。そのとき、みんなで秒数を数える。10!・9!・8!・7!といった具合に、あのとき、わたしたちの<共通の敵>はあの暴力的にまで冷たい水であったが、集団の一体感のなかで敵に挑む心地よさのようなものを、寧ろ感じるくらいであった。

もちろん、ここでの水の冷たさは倦怠感とは全く異なるものだろう。だが、あの共通の敵を前にした人間の一体感のようなものを、わたしは心地よいとすら感じたのをいまでも覚えている。

辛いことが、皆んなでいると気持ち良くなる。このように表現するとマゾっぽい雰囲気が漂うが事実こうなのである。

そう考えると、倦怠感は仮想的な<共通の敵>として告発された存在であるように考えることができる。倦怠感はいわゆる必要悪のような存在に仕立て上げられてしまったのだ。

人間は身近な存在である倦怠感をあえて悪者にして、それを前にみなで一致団結する。そのときの団結したエネルギーで我々は仕事をしたのだ。倦怠感をバネのように使い人間は進歩してきたのかもしれない。

もちろん、こんなものはわたしの妄想にすぎないし、想像の範疇を出ることはないだろう。客観的な証拠が不足しすぎていふ。

でもこれが、倦怠感を愛すべき存在と捉える初めの一歩になることと思う。