歯磨き粉はもう、限界。

我が家が新しい歯磨き粉を迎える日はもうないかもしれない。

そんな不安が過ぎる夏の夜は少し涼しげだが、この手の涼みはなんとも喜ばしいそれではない。

私というイッパチの人間は歯磨き粉という生活必需品たるが「ありゃ無くなったな?」と思ったら購入を検討する訳だが。それは万人に共通したこの世の法則でそりゃ買うでしょと言った具合の冷ややかな目、なんなりを想像できる。

「歯磨き粉が無くなったな」という感覚を持つこと、これ自体は別に悪ではない。後生も大事にするであろうし、それぐらいは持っていても文句を言われる筋合いはない。

ただ問題はこの「無くなったな」という感覚で、この感覚が同居人であり家族であるお嫁様と異なることが最大の争点である。結婚がまだの人はそれは大層幸いである。是非、役所へ行くのを早まらず、冷静になってこの歯磨き粉問題について彼女と血を流すことがないように、隅々、確認を怠るべきでない。

事実として。事実として、私の「歯磨き粉が無くなったレベル」が低いことは認めよう。低いというのは、まだ残っているのに関わらず無いと判断を下すということだ。これは認める。百歩も譲ることなく普通に認めよう。よって、一方的にこの愛おしきお嫁様を責めるつもりはないし、お嫁様が悪だと声を枯らし喉を潰したい訳ではない。

ただ、お嫁様の歯磨き粉への執念、執着、愛着、がもはや歪みを伴っていること、異常とまで言えてしまうということ。

もうはっきり申し上げれば我が家の歯磨き粉チューブは4本あるもののすべてそのライフは0である。丁重にチューブの端を巻き取り伊藤家の食卓直伝の技を繰り出す。チューブも悲鳴をあげている。私はそれ毎夜毎朝、その儀を怠ることはない。

今夜も歯磨き粉のライフは0だと思い続けては早三ヶ月経った。

だだ、一方で私はそれでも何とか充分な量の歯磨き粉をブラシに確保し磨く事ができているわけで、その不思議な浮遊感といったら、散々低空飛行したものの留年せずに済んだ大学時代と何となく、重なる部分があるような気もする。なんとかなってしまった感。そもそも、事故を惹きつけてしまう体質を持ち合わせておきながら、この歳まで死ぬようなこともなく、しっかり生きているではないか。そのことにまず感謝せねばならぬ。

そこで自身に改めて問い直すとすれば、歯磨き粉、そんなものを買う必要があるか?ということである。何とかなっているという事実がある。やばいと思ってから幾分経っても、まだ歯磨き粉には呼吸があるのだ。このまま、最後まで走れるのかもしれないし、そう夢想するのも悪くはない...

そして、自ずと答えは現れたであろう。

 

やっぱり、金欠でも歯磨き粉を買ってください。買わせて下さい。

 

 

ダンシングな静止馬

名古屋の栄生というところに用事があったので車ででてきた。

名古屋駅のちょっと手前の交差点。巨大な歩道橋が四点を渡しあっている。

その歩道橋を無謀にもシティーサイクルで這い上ろうと企む猛者がここに、この酷暑の最中現れた。

彼は果敢にも歩道橋の階段と階段の間のスロープ、本来ならば自転車をそのスロープに乗せて自転車を押しながら歩いて階段を登っていくだろうことを考えて設計されたアレに果敢にも攻め入った。

私はちょうど赤信号の停車中。涼み過ぎて鳥肌が立つくらいの車内で、はじめは何の気なしにその光景をみていた。

コンビニ行きのラフな格好の男は颯爽と歩道橋の入り口付近に自転車で現れたが、減速する感じが一向、なかった。歳はたぶん30手前。ヒアルロン酸は目減りしつつあるものの、シームレスムーヴを極めし漢と言った感じで、滑らかに歩道橋の鬼畜たる斜度に吸い込まれた。この男慣れている。初めてじゃない。かなりの手練れ、玄人。違いない。

吸い込まれるだろうなぁとぼんやりみていたらホントにそのままで、自転車ごと見事なまでに突っ込んだ。

そこから私は運転どころではなく彼を意識的に観察し始めた。

いけっええええあああ。なんか声が出そうになった。数年前の有馬記念を彷彿させる体から浮かび上がる何かを、目の前で繰り広げるられる日常と写し絵のように重ねたことは一種認めざるを得ない事実として健在した。

オルフェーブル。

ゴールドシップ

コンビニ=ラフ・男。

 

歩道橋の入り口。前輪が急峻な勾配に差し掛かって程なく、わたしの脳内瞬間オッズは最大になった。

ふぉ、フォームがダンシングに、なっただと?

男は全体重を右足に込めた。込めている。完全に預けた。ただしザ・ワールド。時が止まっている。美しいほどにバランスは保たれている。両足はしっかりペダルの上。冷静に彼が時間を止めている訳ではどうやら無さそう。信号は青に変わった。

わたしはもう発車せねばならない。後方に迷惑になるから。

私はやむなく止まった時の世界の最中、ブレーキから足を離した。刹那、バックミラーに映し出された最期の彼の勇姿は依然、静止を極めた。

ナポレオン・ボナパルド。イタリアの名門赤い跳馬フェラーリが微妙に脳裏をよぎった。

甘いもの食いたくなったが、やめた。

結婚式の招待状への返事と上司に送る傷病手当の申請書類をポストに入れた。プラマイ0感がすごい。1年ぶりに蝉の声を聞いた。コンビニで切手を買うついでに菓子類を買おうと思ったが、マリトッツォ紛いのクリームパンとクソ甘いカフェオレの二刀流をかましレジに向かう50半ばのおっさんが着ているTシャツの背面に「悪童」と、みつおフォントで流してあったか知らんが、なぜか菓子を買うのをやめてしまった。

糖質制限という世界観に片足がいつの間に浸かってしまっているせいか、悪童おっさんをレジで見かけたときそのおっさんに対して、それなりの感想を抱けなかったのかもしれない。

こういうときおっさんを訳もわからず捻じ曲げてしまったかもしれないという風に思うことがある。悪童おっさんに抱くべき感想はもっとフラットなのっぺりしたものになるべきで、糖質制限的思想をわざわざ視覚情報に絡めるという一種のの離れ業をしていた。しかもそれらはそれぞれさしも吟味されたものでもない。そう考えると彼方から取ってきたものと此方から取ってきたものをテキトーに組み合わせて我々は物をみてるかもしれない。それはかなり偶然の産物でしかも衝動的な所業であろうか。

 

 

お粥かもしれない運転

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お粥には形がない。

お粥は無形である。

お粥はどろっとしていて、甘い。

お粥は最高だ。

お粥は旨い。

お粥でそろそろゲシュタルトがもたない。

 

おかゆ、最高。

 

お粥のオモウトコロをいくら上げたところで、わたしはお粥から報奨をいただけるわけでもないがお粥の宣伝を一生懸命してみた。

お粥からしてみたらいい迷惑かもしれない。かれは良さを分かるだけのひとにわかってもらえれば満足なタイプかもしれない。勝手に広告を打ち出されてもだから何と困惑される可能性すらある。

 

かもしれない。

 

かもしれない運転を実施してしまう。

 

意識外の速攻。

 

わたしはかれこれ半年は工場に赴いていないけれど、無意識のうちにお粥にまでかもしれない運転をしてしまうわけで、これは大量生産消費流通、資本主義、それらに伴うリスクの増加、企業の社会的責任、安全アピールの産物であってこういう人はわたし以外にもいるかもしれない。キケンである。

 

そうこう奇天烈なダサいサムネまで生成して暇つぶししているうちに今晩のお粥ができたかな?

 

持続不可能すぎた朝食SGMn

我が家のSMGn(鯖味噌汁ご飯納豆の持続可能的朝配膳)は三日で死去した。三日坊主を体いっぱいで表現してくれました。

 

 

妻は納豆はたまに食べるのがいいとか、サバもさすがに毎朝はきついとか身も蓋もないことをいいはじめたのでそれがSGMnにとっては鎮魂歌となった。

SGMn発足当時は、何故30年生きてて気付かなかった・・・とか、納豆うますぎて死ぬわWとか私も妻も朝っぱらからハイテンションMAXで我々は意気揚々ハイタッチし人生勝ったような表情を浮かべて手を取り合って笑った。

それから雲行きは一転、二日目で箸が思うように二人とも動かなくなり死相が顔を出したかと思えば、三日目の朝は葬式の様相を呈した。

 

何が持続可能だとわたしは過去の自分に言いたい。毎日違うものを食えばいいではないか、と。

ただ、過去の自分や妻を執拗に攻めるのは何か違う。彼らとしても毎日違うのも食うという行為につかれたから持続可能性に光明をみたのであって、そういうことだ。持続可能性や簡便さや美味さのパラメータを適切に調整することが仕事になる。

SGMnは美味くて手間がかからないが、途方もなく飽きるという課題が見出された。そもそも冷静に考えれば飽きない食事などそうないのだろう。

仮に持続可能性を担保するのでも、調理の簡便さ、時間的コストの低さに付していかに飽きないかが大事なファクターになることを我々は今回身を持って学ぶこととなった。というより、そんなことも考えていない我々が明らかに阿保夫婦すぎたのでした。

朝ごはん問題は今後も我々の人生において大きな壁となって立ちふさがり続けるだろう。

今後とも真摯に立ち向かいたい。

 

 

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メリハリがGを殺すとき

チョロQ

ゼンマイを巻きに巻いて放たれるあのレールガン。

 

妻はよくゴロゴロしている。”ゴロゴロ”より”横たえている”という表現が微妙にしっくりくるタイプのほんわかした脱力感。あの脱力感の裏側で妻からカチカチと機械音が聞こえるような気がする。家ではLayingがホームポジションでたまに動き始めたと思うと凄まじい速度で動作を起こす。ゲージが溜まって放出・発散されたようでもある。瞬間的には急峻なムーブだが、どんより横たえてるときが長いというのがあって時間平均してしまうとグダグダしている、という判定が下る。彼女は時間平均評価的な日本では息苦しいのかもしれないとつくづく思う。

妻は自分でわたしは怠惰な人間だとよく言う。半分正しいが半分違う。関東から親を呼びよせても殺すことができなかったゴキブリに最終的に引導を渡したのは妻だし、そういう点では妻はこの家で”やるときはやるキャラ”をちゃくちゃくと確立し始めている。

やるときはやるキャラなるものが亭主関白の必要条件ではないかと考えると、わたしは将来の亭主候補から一歩後退しつつあると思われる。亭主関白でない亭主はもはやそんなもんは亭主でない。亭主と関白は同じものを指しているように思われてしかたがない。

 

 

持続可能な朝ごはん SGMn

おはようから始まる朝は貴重だ。

人類はなかなかそんな朝にはお目にかかれない。目が覚めたときには、昨晩の酩酊の記憶が脳のうらでどんよりくすぶっていたり、脊髄反射的に風呂に向かったり、あるいは二回目の幸福に突入したり、そもそも独身貴族には不可能に近い。猫でもいればいいかもしれない。まあいろいろある。いろいろな朝のかたちがある。

朝の無数の可能性が、湯気のようにもわっとバックグラウンドに浮かびあがってロマンチックな色を帯びながら我々の目の前に出現する。というわけにもいかない。一日の始まりは大抵は渋い。会社に行きたくない。目ヤニで目が開かない。トイレに行くのが怠い。口の中がぱさぱさして深夜に口呼吸した己に自己嫌悪。胃の奥がなぜかキュルキュルする。日の光がまぶしい。もうちょい加減できんのかとキレる。

朝に見舞われる大量の鈍撃。悲鳴を上げる体力・気力すらない。歯向かうすべがない。受け入れるしかない。自然界の掟を悟るような感覚を不快に対して持たなければならない。すべての不快感覚を無に帰し塵とする最強の朝の麻薬【SGMn】がわたしの前に出現するまでは・・・

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名だたる料理研究家たちは簡単な朝ごはんを提唱した。鍋一つでできる。とかレンチンでOKとかそういった物腰の思想たちである。

わたしはそういったファスト手軽的思想を否定するつもりは毛頭ない。ただわたしと妻は旨いものを食いたいという欲望を持っていた。だから多少時間がかかっても究極にうまいものを追求しようと。

そしてその二年ばかりの追求の成果が【SGMn】である。

さば・ごはん・味噌汁・納豆

起源にして頂点。旨いの一言に尽きる。飽きない旨さ。毎日これでいい。この中のひとつが抜けても調和が乱れる。バランスが命である。SGMnは四人で一つということ。繊細な彼らは離散したNEWSのように活動を続けることは不可能。これは肝に銘じなければならない。逆に、欲を出し色気づいてここに一つアクションでも加えようというものなら、SGMn空間のユートピア的秩序はあえなく崩壊する。色気づくのはいけない。これ以上品を増やしてはならない。大事なことなのでもう一度言う。色気づくのは崩壊を意味する。足るを知る。

SGMnは最高に旨いというほかに持続可能性を約束する。というのも、コメを前日の晩に洗っておけば16分で完成する。手数も少ない。コメに火をかける。サバはグリルに突っ込むだけ。味噌汁は野菜を切って入れて味噌を溶く。納豆は冷蔵庫から出すのみ。

SGMnは我々の朝を保証する強力なウェポンであった・・・

竹内涼真vs.非金正恩

人として生まれたからには髪を切らねばならない。

髪を切らねばならないというので、床屋か美容院に赴くというのが一応のこの世の習わしであるが、別に必ずしもこれらに金を落とさなければならない、ということはない。

 

流石にそこらの道ゆく紳士淑女に髪を切って貰らうというのはかなり図々しいので、素人に頼むとしても友人や家族になる。寮の友人や同居してる家族なら素知らぬ顔でただでやってくれるか、もしくは高々、吉野家で牛丼並奢るとかミラノ風ドリヤ奢るぐらいで対応してくれるはずである。それにも関わらず世間の人がカネと休日を返上してまで平日出勤通学同様にわざわざ山手線に揺られ原宿の美容院に通う。床屋や美容院がプロの仕事だからというのがその最たる理由なのだろうが、それはポジィティブなプロフェッショナル依存なのか?それとももっと鬱々とした塊なのか?要するに「竹内涼真になりたい」のか「金正恩にはなりたくない」のどちらに皆のマインドが集中しているのか?

 

この二者択一に対して思うところは「そんなもんは人によるというものだ」

正しい。それはある意味で正しい。世界を竹内涼真金正恩ですっぱり二分することはできないけれど、わたし自身は竹内涼真になりたい人間が渋谷や原宿を練り歩いていると思っている。それはほとんど見かけが竹内涼真では?という人間がわんさか観測できるというだけの簡単な理由である。

ただ、「金正恩になりたくない」というマインドの人間でも「見た目は充分に竹内涼真」ということも考えられる。そうかもしれない。何なら竹内涼真を目指すのならば「竹内涼真になろう」と躍起になるのはかえって遠回りかもしれない。「金正恩からできるだけ離れる」という悲観的な信念を持つづけた結果、自動的に竹内涼真に収束してしまったという事態も考えられる。それはかなり嬉しい誤算である。

まぁでもその嬉しい誤算やらが多発するならばそれはそれで嫌な世界になる気もする。「金正恩からできるだけ離れる」ことをヘラヘラ周囲に公言しながらも実際には竹内涼真に寄せたいという願望を持につつ周りを出し抜こうと画策する輩が現れるかもしれない。そうであれば竹内涼真になりたいんやと一直線にモテようとする小細工のない人間に好感がもてる。出る杭は打たれるというが、こればかりは耐えてほしいものである。

いろいろ考えると、竹内涼真みたいな人が街に沢山いるという観測値から、彼らがどちらの条件を前提としているのか考えるのは時間の無駄であり不毛であることが分かりました。

 

ということで、でもないのですが、2021年6月19日16時31分。

わたしは竹内涼真になるために近所の床屋「カミヤ」に赴いたのでした。

「カミヤ」なる店名が神谷さん夫婦が営んでいるからなのか、「髪屋」なのか、この市町村名を一文字文字ったダジャレなのかは永遠の疑問ですが、家からあるいて30秒なのでそれもあって伺いました。

カミヤに訪れるのは二回目でした。ただ散髪してもらうのは初めてなんです。前回伺ったのは一年近く前のことです。ちょうどコロナが世間で騒ぎだして最初の緊急事態宣言が出たくらいの時期でした。ところが店に入ったわたしはすぐに追い返されてしまいました。

パーマは切れない。

扱えないということでした。

そこはかとない店のポリシーを感じてわたしの胸はこの時ばかりは大変に熱くなりました。

それでもって時は満ちました。一年経って髪の毛は全てストレートになり、パーマが解かれたのです。

今こそ全身全霊、身も心もをカミヤに捧げる手筈が整ったのでした。

 

 

 

先延ばし癖

あれを入手せねばならぬ。

 

あれというのはたわいもないトイレットペーパーのことだ。トイレットペーパーを入手するという行動を起こさない限り決して便意を催すことはできない。便意を催さないようにするためには、基本的には何も食ってはならない。食うことはダイレクトに便意を感じるに繋がる。それでも便意は来るだろう。お節介にも何も喰わなくても便意はいずれここに来る。それは知っている。自律神経というのが勝手に作動して生命活動の膿を落とす。自律神経様には何も頼んでいないのだが自立している故に勝手にぱっぱ色々やる。ただ不都合にも自律神経はトイレットペーパーは買ってこない。自律神経に命ずることはできない。ひとの言うことを聞かない。トイレットペーパーを買いに行くのが億劫なので便意を催す神経伝達を送るのを辞めてほしいと相談しても断固シカトされる。話すら聞いてくれない。そもそも自律神経がどこの部署、管轄なのかも不明。内線番号もしらない。一切は閉ざされている。自律神経はメンタリストDAIGOから言わせれば内向的だ。でも良かったな自律神経さんよ。内向的な奴はそうでないものに比べて何%だか成功する確率が高いらしい。

便意を催さないために食わないのをやめるという考えがそもそも間違っていた。いつかは破綻することだ。それに忘れていたが人間は食わなければ枯渇しきって死ぬ。ギリギリまで便意を催さないために食を切り離し渋り続けるも、そのことを思い出したころには既に手遅れかもしれない。腹は減ってるを通り越して腹は減っている。ソファから外に出るのも無理。既にエネルギー枯渇は終末。よって冷蔵庫まで至らない。冷蔵庫まで到達できぬので食にはありつけない。意識がなだらかに遠のき薄れつつ胡散霧散する最中。澄んだ闇に走馬灯が流星の如く過ぎる白金の煌めきはなんだろうか。その数多の一つ一つの流星を脳内デジタルズームのように拡大するのにその僅かながらのエネルギーを振り絞る他になかった。最期の力は好奇心に振った。解像度は行き過ぎた抽象度のモザイクアート。ボヤけた白さ、これは白さゆえのポリゴン感なのか。降り注ぐそれらが筒状のものであることは確認できた。無限のそれらは他でもないトイレットペーパーであることに気づいた瞬間に夢から覚めた。

廊下の奥から声がする。お嫁様の声だ。彼女の悲鳴で目が覚めたらしい。どうやらトイレットペーパーがないらしい。ただちにスギ薬局に向かわねばならない。ただちに。

推し、皇帝

ヨガというものをご存知ない方はこの日本にはいらっしゃらないと思います。いてもいいんですが。

 

で、それで、これからしたいこととしては皆さんにヨガ、を薦めることです。推薦というやつですね。ヨガを推します。それでもって推薦するにも推薦するなりの理由というものが然るべくしてあると思うのです。白紙の推薦書では確実に入試に落とされますね。担任は生徒が昼休みの掃除を率先してました、とか、文化祭で夜遅くまで残って頑張ってましたとか、宿題は九割五分やってきてましたとか、書かねばならんのですね。ジャパネット高田も床に有象無象の屑をばら撒いてその吸引力を誇示するパフォーマンスをしますし。だからこう、ヨガの隅から隅まで包括的に満遍なくちょっとしたアクセントを足しながら素晴らしさを皆さまに伝える、というのが推薦するということの意味だと思うのです。当たり前ですね。

ただ、ものごとはどうも上手くは事が運ばないのが常でして。ヨガの推薦文を記してみたところ、客観的にみてもヨガの推せる点が一つも表現されておらず、これは悪い癖なのですが、論ずる点がズレてしまったと申しましょうか、そういうことは往々にして起こりうる事なのです。枝葉に関心がいってしまう、そういう類の問題です。それはここに一つ、承知いただければ幸いでございます。

 

 

 

 

 

会社に通わなくなって約4ヶ月。ここまで人生で何もしなかったことはそうそう無いというか無い。小学生の夏休みでも2ヶ月間しかない。しかも彼等には宿題とかいうものが課される。わたしには何も課されてない。昼寝、昼寝、夜寝、朝を無限にループする。何もしなくてよい。寧ろ何もしないことが推奨されているか知らないけど概ねそう思う。あってもせいぜい早朝にセロトニンがてらの軽いウォーキングをしましょうくらいの推奨だろう。

何も課されてないからあたりまえだが何もしないことに対しての罪悪感は驚くほどない。焦りもない。いや、焦りもないといったら嘘になるかもしれない…?実際、ほどほどに真面目な私には焦りがあった。妻もいる。将来的に子も爆誕する可能性もある。妻子持ち。そういうことだ。

 

少々の焦りに背中を押され、ソーシャルな接点を求めた俺は、ヨガ教室なるものに通いはじめた。このヨガ教室なるものは自分でいきたいレッスンを事前に予約して赴く、そんなスタンスだ。俺の通うヨガ教室には予備校の浪人コースのようにインストラクターの名前とレッスン名が記された時間割がある。

が、この時間割は俺にとって大した意味を持たない。というのも、取るレッスンは既に決まっているからである。インストラクターの中には中部地区でも人気実力ともに欲しいままに君臨するレジェンド、「トップインストラクター」と呼ばられる女性講師が存在する。雰囲気はカリスマ予備校講師をイメージしてもらえば十分である。(時間割には名前講義名の横に👑が記)

俺はそのトップインストラクター(以後帝王と記)のレッスンがあればすかさず、アプリから反射で予約をキメる。帝王は週一くらいで俺の通う近所の町教室に飛来。始皇帝の天下巡遊。本レッスンは即刻満員御礼となりキャンセル待ちは日常茶飯事。帝王の人気は他の追随を許さない。要は格が違うのだ。

帝王のカリスマたる所以は、その圧倒的過ぎる話術にあるのでした。このホットヨガに脚繁く通う主婦たち百人単位の家族構成、身体的不調や悩み、趣味、子供の学年、夫の職、夫の愚痴、ヨガスキル等の情報が全て皇帝のデータベース内に格納されており、その出し引きの速度は光速を遥かに凌駕する。

さらには汎用的賞賛話術(勝手に名前つけました)を巧みに駆使する。例えば皇帝がちょっと興奮気味で講義後に山本さんー何かスポーツとかやってらしてましたか☆?と何気無く尋ねるや、俺はサッカーをやっていたと返答する。皇帝は目を抜群に輝かせて、なるほど♪通りで体幹が素晴らしい☆と俺を讃える。俺はひたすら照れまくる。女性に褒められるということは特に嬉しいものだ。

同様の質問をされてる若い女性がいるのを以前見かけたことがあった。その人のビジュはスポーティな雰囲気でポニーテールくびれ抜群の広背筋やばい美女だったものの、

吹部でした…みたいな返答した。意外にも運動経験ゼロ系女子であった。皇帝は身体を動かす習慣がないのに私のレッスンにここまで喰らい付いてこれるのは才能だと讃えた。

全てをポジティブに包み込む母性。汎用的賞賛話術と共感点をみごとに抑えた緻密なデータベースにより、皇帝はすべての会話シチュエーションに柔軟かつ臨機応変に対応できるのでした。そして俺のように普段から賞賛に飢え、慣れてない人たちはなんだか肝が浮遊する感覚、ワフワフしてしまうのである。わふわふー。わふー。ふわふわー。

これは既に皇帝の術にかかっている状態である。皇帝のわふわふを喰らったヨガ徒は、このわふわふ感を無意識のうちに求めて次回も皇帝のレッスンを取らずにはいられない。カリスマには中毒性が常なのだ。

 

ここまでに皇帝のヨガスキルに関することを俺はまだ言及していない。していない、という表現よりは二つの意味合いで「できない」のだ。

まずは当たり前だが俺にはヨガスキルを判定することが能力的に不可能だ。俺より身体の硬いヨガ徒を未だ目撃したことがない。(シンキャクがヒザくらいしか逝かないくらいの人)

二つ目、皇帝は基本的にインストラクターであるものの、ヨガなぞレッスン中にやらない。ヨガ講座というのは前でインストラクターが鳩のポーズを実演するとそれを真似て主婦群が一斉に鳩のポーズを行うという段取りである。皇帝にはヨガ教室界の常識なぞの些細なことは通用するはずもなく、「最近ですねー膝関節がダメだから私は動きません☆」と講座の冒頭でおっしゃるのでした。よってレッスンは皇帝の一声のみによって進行していく。彼女の膝がダメなのはそれもそのはずで、皇帝は御年半世紀超えにして、社員として残り続け裏方に回らずに鬼のような現場主義のためにインストラクターとして最前線でやっているのである。要はキングカズであり、5年前くらいのミハエル・シューマッハである。皇帝は生ける伝説であり、それゆえ生きているだけで神格化されるため本当の実力がどうだとかの軸で測れる類ではないのでした。

 

そんな皇帝にもレッスン中にその品格を問われる事案が発生することもある。皇帝は2種類のレッスンを担当している。ひとつはマジで途中で帰宅したくなるくらいキツいレッスンで、もう一つはヨガニードラと呼ばれる一時間の殆どを目を瞑って仰向けに寝て終える、というなんとも、一見すると気楽なレッスンだ。

後者のレッスンはいびきをたてて爆睡する人間が後をたたない。片っ端から皆寝る。爆睡。皇帝はというと「右足の中指に意識を集中して下さい」云々をお経のように次から次に指示し唱える。その入眠作用はヨガ徒にとって大変な狂気なのでした。居眠りしていては身体の隅々一点ずつに意識を集中させることは不可能であり、ヨガニードラの練習に一向にならない。皇帝としてもこれは看過できない由々しき事態であり、当然いびき爆睡ヨガ徒を一掃せねばならない。彼女はヨガニードラを純粋に布教したいのだ。ただ、皇帝は品位が自分の経歴に箔をつけていることを承知していたので、爆睡している主婦を叩き起こす、という選択はしない。(ヨガの経典ヨガ・スートラに記される八段階ピラミッドのうちの最下段の一段目、[慎むべき事柄]の中で、「他人に対する攻撃意識を持つこと」を禁じられているのであった。)

 

必死こいて足の親指にその意識を集中している我々、起きているサイドの人間に皇帝は放ったのでした。「横に寝ている主婦がいてもその人はあまり気にせずに親指の先端に意識を兎に角、集中させて下さい。」皇帝は爆睡の民をふつうにパージしたのだった。血も涙もない。しかしながら、捨てるものはきっぱり捨て去る潔のよさ、覚悟に俺はたしかに痺れた。レッスン中、目鯨を立てていてはサマーディなる煩悩を打ち払った八段階の登頂、究極に至れるはずもない。皇帝も葛藤しているのだろう。眠った人間をいなかったことにしてしまった。

ここまで、俺を初めとする睡魔に打ち勝って生き残っている勢も、隣から規則正しいイビキがミサイルのように飛来するとことにイラつき始めた。睡魔と意識を集中できないもどかしさのジャブを永遠と食らい続けるサバイバルゲーム。そもそも俺は発達障害という集中する行為が極端に苦手なタイプ。ただそんな言い訳は皇帝の前では通用しない。寝ることは死を意味し、即刻、皇帝に愛想を尽かされる。皇帝はニートである俺の貴重なソーシャルな領域の住人だ。ここで寝れば俺はその瞬間ただのニートに戻る。横の主婦が1人2人とバタバタ睡魔に敗北していく。ホットヨガの温室の暑さがここちのよい温もりに変わりつつあった。いつの間に四方をいびきで包囲されていた。皇帝の鎮魂歌がいびき勢力を助長した。

気づいた時には俺の意識も親指や薬指などになかった。やまもとさーんと声がした。やまもとーさんー。やまもとさん?俺は全身に意識が戻った。暗室には皇帝と俺1人とが取り残されていた。

レッスンはいつの間に終了していたのでした。皇帝は俺を起こすと部屋からさっさと出て行った。それ以降、皇帝は俺に対してその笑顔を振り撒くことはなくなった。