藤井尚樹、齢36才は考える。どうして自分の部屋はこんなにもお洒落ではないのか。
この問いが浮かぶのは、決まって夜だ。間接照明の角度を変えてみたり、IKEAの棚を左右に動かしてみたりしてもうんともすんともお洒落にならない夜に、藤井は天井を仰ぎ、頬に一筋の涙がつたった。
きっかけはyukisanのインスタだった。露出したコンクリートの壁、アンティークの椅子、それと対になるようなモダンなローテーブル、そこに植物が絡んでいる。藤井はその投稿を7分間見つめた。いいな、と思った。ではなぜいいのか。コンクリートか。アンティークか。植物か。彼は要素を分解しようとしたが、どうにも手がかりが掴めない。それぞれを単独で取り出すと、何かが違う。コンクリートだけでは寒い。アンティークだけでは重い。植物だけでは——植物だけでは何だろう。藤井はここで初めて、植物という要素が他の何かと作用することで、ある種の力を発揮していることに気がついた。chouwa、という言葉が頭の端に浮かんだが、それ以上は展開しなかった。彼は概念を抽出する代わりに、とりあえず植物を買いに行くことにした。
さっそく近所のホームセンターでポトスを買った。ポトスを選んだのは「育てやすい」と書いてあったからで、それ以上の理由はない。しかし藤井はその日の夜、観葉植物についての文献を読み込み、気がつくと熱帯雨林の層構造についての英語論文を翻訳していた。林冠層、亜高木層、低木層、林床層。四層構造だ。彼は部屋をそれで再編することを決めた。彼の住処の四層構造、パピルス大滝、木造2階、家賃35000、プロパンガス。この前提条件的な四層構造については、特に考えないことにした。
Amazonの発注リストは30分で膨れた。林冠層を担うはずのゴムの木は天井に届きそうな鉢を二つ、その下にはモンステラ・デリシオサをヘゴ棒仕立てで、亜高木層としてフィロデンドロン・ビルリナエを吊るし、低木層にはカラテア・オルビフォリアを湿度で揺れるよう配置する。林床層は苔だ。パルダリウム用のウィローモスとフィカス・プミラを組み合わせ、流木の上を這わせる。霧吹きでは追いつかないと判断した彼は、3ヶ月分の給与をはたいて超音波式加湿器を二台購入した。湿度計がある日80%を示した。結露が窓を伝い、黒ずんだ畳に落ちた。冷蔵庫が、その畳の上に直置きされていた。藤井はそれらを、熱帯の朝露と、自然が育んだ原始の岩盤と呼ぶことにした。
照明も変えた。植物育成用のLEDスペクトルは赤660nmと青450nmを混合したもので、部屋は夕暮れとも夜明けともつかない紫色に染まった。アグラオネマの葉脈が浮き上がった。
部屋はすでにお洒落ではなかった。お洒落という概念が、モンステラの気根に巻き取られて消えていた。
それでも藤井は、これをお洒落になるための通過儀礼と捉えることで乗り越え、次は南米のジャングルの生態系を模擬することを考えだした。具体的にはアマゾン川流域に生息するブロメリア科の植物を葉腋に水を貯める形で配置し、そこにカエルを——
が、そこで一旦冷静になり、yukisanのインスタに戻ることにした。yukisanの部屋には、あいかわらず植物があった。コンクリートの壁の前に、ただ、あった。ちょっと。
ヤカンのお湯
私には癖がある。人間ついやってしまう癖というやつだ。あれだ。ヤカンにお湯を入れたまま放置するという癖である。
妻にとっては、これは許されざる業である。大したことないと思うかもしれないが、問題はこれが南部鉄器のヤカンであって、水を入れたまま放置すると錆びてしまうのである。
4歳の娘ですら、最近、母親を真似て指摘をしてくる次第である。
癖というものは、並大抵の努力をもってしても、その人間から消えるものではない。私は上記のことがらを、5年以上も指摘され続けており、その中では、偶に改善される時期もあれば、ふっとまた悪癖が顔を出し数ヶ月蔓延る時期もあるのだ。一旦意識して、水を捨てない習慣を改めても、習慣化したころにはまた悪癖が出てきてしまうというか、一度水を捨てないことがあると、また、それが習慣化してしまい元に戻ってしまう。
私にとって、水を捨てることと、捨てないことの意味にそこまでの差がないのかもしれない。どちらも、同じ程度の事柄である。
では、例えば、大人になっても鼻くそを食べてしまう習慣が抜けない人というのがいたとする。そうすると、鼻くそを食べることと、食べないことが同じ程度の事柄、鼻くそを食べるという非日常的?な行為が、鼻くそを食べてないという日常的な状態に限りなく接近してしまっている。
習慣に悪とか善とかは、それは人間にとってどうとかという話で、習慣そのものもは、いかにいつもやってることの間に行為が自然に埋め込まれて馴染むかということだと思う。
そういう意味で、私は妻や娘に怒られるという風景すら、わたしの1日のキャンバスに馴染んできてしまった。悪癖の是正そのものが、習慣化された瞬間であるり
野球
種子岸美華子が所属しているテニス部は、つねに廃部寸前の危機に瀕している。
理由は単純で、部員が美華子以外に誰一人として存在しないからである。
当然、この状態を良しとしない彼女は、部員を増やすしかない。
動かないという選択肢はなかった。
学校の規定上、部としての条件はかろうじて満たしている。しかし美華子ひとりでは、この部の活動がまともに成立しているとは言いがたい。どこかから人を連れてくるしかあるまい。
テニス(teniss)。
と高校生の彼女は呼んだ。
呼んだ、というより、彼女が勝手にそう命名したと言ったほうが正しいかもしれない。彼女がこどものころ飼っていた元気な雑種の犬の名だった。
テニス。テニス、teniss。ワンワンワンワン。
「それでは、今日の全校集会ですが、最後にテニス部さんからPRがあるとのことです。それでは種子岸さん、お願いします」
マイクの前に立つと、種子岸は言った。
「わたしが作ったテニス部に入りたいという方はいませんか?」
体育館は静まり返っている。
「もし、いるのなら、これ以上わたしは何も喋ることはありませんし、こうして皆さんの前に立っている必要もないですし、このまま撤収ですね。」
少し間を置く。
「でも、いないなら。仕方がない」
そう言うと種子岸美華子は、堅牢なハエ叩きのような、何というか棒の先に、格子状の円盤がついた道具を体育館の床から拾い上げた。
そして、それを振り回し始めた。
スコン。
スコン。
シュッ。
ポン。
黄緑色の球体が弾かれる。
彼女は自分で打った球体を追い越し、反対側からそれを打ち返す。
明らかに奇妙なほど発達した下半身が、体育館の床を蹴る。キュっキュッ。
ひとりで。
体育館がざわめいた。
「ハハハ、おっけー。了解了解。ずっと俺、それやりたかったんだよね!」
誰かが笑いながら叫んだ。
だが、種岸子美華子にはまるで聞こえていない。
壮絶すぎる運動の果ては、いつも決まっていた。
そのまま、彼女は膝から崩れ落ちるしかない。
それでも、奇跡は起こったのだ。
気がつくと、白色灯の眩しさが眼底に突き刺さっていた。
保健室だ。
眩しい。
目を細めると、逆光の向こうで誰かがこちらをのぞき込んでいる。
「おっけー。目ぇ開けた」
小さく言った。
ハーフなのだろうか。
端正な顔立ちだ。巷で人気のメンズコーチのような風貌すら感じられる。
だが、それよりも先に目に入ったものがあった。
彼の視線だ。
黒目が存在しないように見える。
いや、むしろ高速で回転しているのかもしれない。
回転?
「スライス回転」
彼はぼそっと言った。
「おっけー。わかった、わかった。きみのテニス、tenissだっけ?」
彼は肩をすくめる。
「一人でやるには激しすぎるし、反対側に人を立たせて、そいつに球を打ち返してもらうとオモロかもな!」
「投げて」
美華子はベッドから起き上がった。
「投げて」
彼を見た。
「わたしが、打つよ。あんたのタマ」
4歳娘との会話
・電車内のアナウンスで終点が近いと流れた
・娘が「終点ってなに?」と自分で言った
・娘が「終点はこの先の駅がないこと」と推測した
・娘が自分のおしっこを「可愛い」と言った
・「おしっこに可愛いはあるのか」という話になった
・娘が「おしっこはほぼ水」と言った
・「水に可愛いはあるのか」という話になった
・娘が「生きていると可愛いとかあるかもしれない」と言った
・娘が「パクチーは嫌い」と言った
・娘が「パセリも嫌い」と言った
・父が「パセリは好きではないが食べられる」と言った
・娘が「大葉は?」と聞いた
駅そば
駅そばをまだわたしは知らない。せいぜい知っているのは、あの気まぐれな制御不能な七味唐辛子の薄っぺらな開閉弁と、何故か立ったままカウンターで突っ伏している登山帰りの中間管理職風情の男である。
駅そばをまだわたしは知らない。せいぜい知っているのは、電車を降りたひとがこれから改札を通る前に向かう場所がそれを指してるにすぎないことである。
駅そばをまだわたしは知らない。せいぜい知っているのは、券売機で券を買う前からわたしがそこに来ることを知っているとしか思えない点である。入店したら、すでに盆のうえに湯気が立っている。
駅そばをまだわたしはしらない。それが地球にあるということが、あり得ない重力であることに。
あー。とこれらを書いて私は思った。駅そばのエッセイを書けないことに気付いてしまった。
4歳の、娘へ
おかあさん、はずかしくなければ、ほのちゃんのおたんじょうびによんだあげてください。みなみそうまにしゅっちょうしてあたまがつかれてしまっているおとうさんはこれくらいしかできません。
ほのちゃんへ
おたんじょうびおめでとう。もう4さいになったね。はやいね。ほんとうに。せいちょうするのがはやすぎて、おとうさんが40さんくらいになったときは、もうほのちゃん39さんくらいのかのうせいもあるね。
4さいになったし、もう、ほのちゃんはなんでもできるね、きっと。きのうもよるねるときにいっしょにほのごうですいせいにいったけど、ほのちゃんはすいせいのこんびにがすごいすきで、とにかくすいせいのこんびににいきたがるよね。わざわざ、あんなにとおくにいって、さむいおもいして、いくのこんびになんだよね。
ほのちゃん。おとうさんは、ほのちゃんにどうなってほしいとか、ほんとうになにもおもってないよ。おとうさんみたいになってほしいともおもわないし、おかあさんみたいになってほしいともおもってないよ。
でも、ほのちゃんはわからないかもしれないけど、おかあさんはりっぱなにんげんなんだよ。ほのちゃんにはまだおかあさんのすごさがわからないかもだけど、それはそのうちわかるとおもう。いきていくうちに、じわじわわかってくるとおもう。
4さいになったらしたいことありますか?3さいのほのちゃんはばれーもえいごもいろいろできるようになって、おしゃべりもじょうたつしたね。おとうさんをあさおこすときもすごくりゅうちょうにしゃべりながらせっとくしてくれるし、たすかってはいないけど、すごいとおもいました。
とにかく、ほのちゃん、おたんじょうびおめでとう。また、さむかわちゅうおうこうえんいこうね。おとうさんより。
吊り革と呪詛
電車のなかで、吊り革を握る。動画広告の動きに、無意識に注意が吸い寄せられる。すべての物が、わたしの注意を全力で奪おうとしているように感じる。被害妄想だと頭ではわかる。でも、暇だからつい見入ってしまう。これもまた、広告というビジネスが人間の認知に仕掛ける力の証だろうか。
わたしの視線は目の前の大手学習塾の広告に移る。
「四角い頭を丸くする」——ドローンだの、実際の入試問題に電車に揺られながらチャレンジできる、などと書かれている。問題文は呪詛のように連なり、思考はそこで止まった。
世の人は、問題を解きたすぎるのではないか?
止まった思考からようやくこぼれた感想はそんなものだった。みんな何かを解決することに躍起だ。仕事でも遊びでも、私も例外ではない。妻とJRの謎解きをしたりする。
問題を解くことの本質は何だろうか、とぼんやり考える。ふと思った。これは、安心のためではないか。
安心、安心?
なぜこんな飛躍した考えが浮かぶのか。ひとつには私の気まぐれがある。先の広告の入試問題には出題校が併記されていた。つまり、その問題の世間的レベルがわかるのだ。その問題を解くことで、私たちは自分の立ち位置を測り、安心や不安を得る。
不安を得ることもあるだろう。それでも、リスクを背負って電車の中でこのハードルに立ち向かうのは、どこか都合の良い経験が勇気を与えてくれるからだろう。大人なのだから、小学生の問題くらい解けるだろう、という楽観。それが、絶望に向かう小さな挑戦を許してくれるのだ。
絶望するだけの人間には好感が持てる。少なくとも、思考をやめた私よりは。
なんか
人間のこころというものは、一体、何をみているのだろうか?そうだ、これこそが現実というものをいつもみている。私たちが見ているものは到底、ゲームのなかやファンタジーのなかや小説のなかのことと同じようには思えない。そういったものと一線を画したところにある現実感というものを絶えず突きつけられる、から、私たちのこころはもたないのだ。
わたしの身体は、すくなくとも、この世でもっとも現実的だ。小説の中でその主人公の身体に同じことが起こってもそれに似つかない感情が芽生える。主人公に当たった石よりも、わたしの身体に当たった石のほうが、断然痛い。そういうとき言葉にも感情が宿る。石が直撃した、とか言う。
この痛みのようなものを、たとえばオフセットすることができたとして、そうしたら私たちは楽になるのか?でも、それはできない。わたしはこれまで神経を切断すること(深く考えないこと)、を幾度も試みたが、感情そのものが現れることを予防することはできなかった。だから、諦めたのだ。
じゃあ、わたしたちはどうすればいいのか?いまのところのベストアンサーは、身体に当たった石をとりあえず拾ってみる、ことだと思っている。そして、なんでもいいから分析をしてみる。石をじっくりみてみる。重さを測ったり、飛んできた方位を調べてみる。わたしたちはわからないことが、恐怖なのである。
それでも、自分が無能であると感じたときに、社会での必要性を感じられないときに、その分析をしても色んなことの完全な解決には至らない。無能感や劣等感が、これまで人間を自滅させることをわたしはみてきてたし、自分もそれを沢山してきた。自滅というのは、自分の本来の望むことと逆のことをしてしまうというようなことだ。これは自分でもそう分かっているのに、そういう行動にでてしまう。やめられないのだ。
社会のなかでの自分の存在の意味、これに触れるということは、その人間にとって、その人間の人生にとって1番大きな課題だと思う。20歳とか30歳の人間で到底太刀打ちできる代物ではない。多分、それ以上に大きな課題は少ない。のに、それを軽いものとして扱ってしまっている。周りの人間はそれすらも余裕で乗り越えたようにわたしは見ていたし、でも、おそらく、今考えるとそんなことはないのだ。わたしは最近知ったが、多くの場合は、解決しているのでなく、未解決のままで、さらには深く考えずにそれを問題にしていない場合すらあるということに。みんなそんなに暇ではない。行きたいところも沢山あるし、食べたいものも沢山あるし、やりたい仕事も沢山あるのだ。
それでも、我々暇な繊細人は存在意義について、あれこれ悩まざるを得ないのだけれど、これはたぶん、負けイベントなのだ。勝とうとしなくていい、気楽にいこう。
無意味耐性0
決められた計画やスケジュールをなぞるような日々を送っていてると、そこに過度に意味や意義を求めて己を見失ってしまう。
朝9時になったら幼稚園に娘を連れて行き、ママ友に挨拶して家に戻ったからまた迎えに行ってまたママ友に挨拶して他の習い事に連れて行き、習い事先でまたママ友に挨拶して、帰って夕飯の支度をして風呂に入って寝る。
こう、文字情報としては面白いほど淡白な配列だ。ここにはママ友達の界隈で生じる小説のような何らかのドラマチックも発生しない。
最近思うのは、私たちは意味や物語を生きていないし、生きているようにそう錯覚してしまっているだけである。
なぜそんな錯覚をしてしまうのか、一つは過去に対する解釈を私たちはするけど、(それはたまたま解釈を都合よくできるものもあるが)それができない対象も往々にしてありふれている、ということだと思う。担当者レベルの仕事では、何か反省をして、一つの物語を作ってそれにならって対策をして上手くいったいかないをするのであるが、それはそのレベルの仕事での話であって、我々はすべてに対して無節操に「意味を見出そうとする」というフレームをどうも杓子定規にあてがって、無意識的に物語への欲求を暴走させすぎているような気が起こる。
逆に言えば、私たちは極度に意味のないものへの耐性が減っている。娘をみていると、特にそれは強く身にしみてわかるものだ。わたしは娘を可愛いしもちろん大好きだと思うけれど、ずっと見ていることは一言で困難である。彼女の行動は無意味極まりないのに、そこに無理矢理意味をねじ込むという行為を自然と行なってしまい、飽きるからかもしれない。
趣味は読書
趣味を読書かと思っていたのだが、あるときふと、わたしは、活字を追うことが趣味であって読書そのものには興味がないのかもしれない。と思ったことがあった。
極端な考え方かもしれないが、仮説としては持ってもいても、そんなに悪くもない気もする。活字を追うことが趣味。もしかしたら活字ですらなくていいかもしれない、記号の羅列でよいのかもしれないし、黒いシミなのかもしれないし、よくわからないが、棒や線の集合なのかもしれないし、ときたまの曲線のリズムの戯れのようなものなかもしれない。
そう思うと、わたしたちは読書しているとき、何を読んでいるのだろう!と思うのだ。単語と文と全体と、そこから意味を引き出しているのは確かなのだが、色んな切り口の要素が詰まった大層複雑な構造を眺めている、そういう行為をわれわれは読書と呼んでいる。そういうバガデカイものに対して、好きとか嫌いとか趣味ですとか、言っているのだ。
同じように、身近なところだと仕事という言葉も色んな要素の複合体である。仕事は大変とか、つらいとか、やりたくない、やめたいとか超楽しいとか色んな人が色々と思うわけだ。みんなそれぞれ、仕事に対して抱いてる観念が異なっていて、異なっているから、その人に何だかんやと質問をしないと本当のところが分からない。人間関係に悩んでいても、作業速度の遅さに悩んでいても、どっちも仕事がいやなのに変わりわない。
物事になにか、本質のようなものをつよく求めすぎると、黒いシミに気づかないのかもしれない。読書の本質は言うまでもなくコンテンツだろう。それは認めるが、その本質から逸れている黒いシミ、副産物もまた、読書である。別に、自分の興味が本質に近かなければならない、という必然性はないのだ。それは、たまたまで、運でしかないのではないか。