手話ニュース

何となく、テレビをつける


時間を調べたかったから、それ以外の意味は特に持たなかった


テレビの電源が入り、少し遅れて画面に光が灯る。ちょうどニュース番組だった


「トランプ大統領がイスラム圏………


目鼻立ちの整ったキャスターから飛び跳ねるかのような歯切れの良い日本語が心地の良いリズムで私の中へ刻まれいく


画面の左の端、そこでは中年のおばさんが堂々と慣れた手つきで。手だけではなく、腕も身体も全てをも、全てを総動員させて伝えようとしている


私は、キャスターがトランプという言葉を発する度に画面の左を注意深く見つめた


これは、単純な疑問からであった。トランプという固有名詞をどう表現するか?といものである


もし、仮にトランプという固有名詞を手話で表現する方法がないのであれば、例えば米国と大統領という一般名詞を組み合わせれば表現できるだろう


もしかしたら、この世の固有名詞は無数の一般名詞の集合として捉えられるかもしれない。東京タワーであったら、その材質、築年数、高さ、場所…。それが例え蓮実クレアであっても。身長、年齢、体重、カップ数、経験人数、バスト、所属会社…を指定すれば表現できるだろう。無数の事柄、蓮実クレアに関する出生地、人生におけること…さらに細かい出来事を追加していけば、限りなく蓮実クレアという存在に接近することができるし、不確実性を極限まで減らすことができる


私は、そこに何かフーリエ級数展開を思わせる美しさを見出すことができた。(全ての連続な関数は様々な周波数と振幅を備えたsinやcosの無限級数、和として表現できるというもの)


それはさて置き、結局後で調べて分かっこと。手話で固有名詞を表現する際は、「指文字」というものを使用するということだった。僕の勝手な妄想は杞憂という形で幕を下ろしたのだった

ツマラナイ説教

ちょうど、お茶の水で乗って来た親子だったか…大きなランドセルを背負った少年が、叱りつけられていた


「じぶんがやられていやなことはほかのひとにはしてはいけません」


僕は何度となく、あの狭苦しい整然とした教室でこれを聞かされたものだ


しかし、この教えは、殆ど意味をなさないことが…もうそれは、随分と昔からはっきり分かりきったことではあった


結局、他人に、自分の中で働く法律を適用しても、何ら効力を持たないし意味がない。


各人は、その人自身の法やシステムやアルゴリズムみたいな下地の上に成り立っていると思うからだ


勿論、僕と似たような精神システム、アルゴリズムを持った人間はいる。大抵、そういう人間と同じ時を過ごしていても疲れない。それは自国の法律を他国でも行使できるし、またその逆も可能だからである。両国をほぼ土足のまま往来であり、そういう人間を私は、俗に呼ばれる友人と考えている


もし私が素直に尊敬できる人がいたとしたら、その人物は他人のルール。複雑に絡んだそれを一つづつ解きほぐしながら…その上で行動できる人間だろうか、要約すると


ほかのひとがやられていやなことはほかのひとにはしてはいけません


だろうか?








多分そんなの、むりだろう。と僕は自分でも笑ってしまった

今朝

7時半だった


暖房のせいか、水気のない空気。その乾いた空気たちが水を求めて私の身体に入り、要件を済ませたら、すぐさま慌ただしく外に拡散していく…


そんなことを意識的に繰り返す。その内に徐々脳味噌が、身体が今日の世界に順応してくるのを感じた


しかしそれは、あまり気持ちの良い朝とは言い難かった。脳が起動する段階で、何かが私の中で引っかかっていたのが所以である


その正体はすぐに理解できた。


というのも、それは昨日の友人の話だった。それは二年以上付き合った彼女と音信不通になりとうとう浮気現場を目撃し消滅寸前だという類の話だった


先に言っておくが、私にはそんな破天荒な恋愛経験は存在しなかった。


分からない。私が想像を幾ら膨らましたところで、それは妄想の範疇を越えず、実態を伴わない。それは一筋の線香の煙が大気中に散っていくように。儚く、途中で消えてしまう。同情するという行為の前段階、その事象を理解するという段階で私は苦しんだ


そこで私はその手段を取るのを止めてしまった。次に出てくるのは侮蔑、嘲笑といった道具である


こういった低俗と思われる手段は、同情の同列でなく、対岸に存在するものと思われるかもしれない


たしかに中途半端な、幼稚な同情ほど不愉快なものはこの世にない。


それでも私はそれを紐解こうと、努力すべきだった





そんなことを考えていたら、身体がベットから自然に起き、また、1日が始まってしまった

悲劇のトマト事件

これは喜劇ではない、悲劇である


何もかもsmoothに事が進む、勿論挫折くらいはある。ただ、それが津波のように畳み掛けるように自身に押し寄せた経験は私には見覚えがなかった


必ず、悪事のすぐ裏には何かが、都合の良い、何かが必ず潜んでいる


そういう風に、人生は、そういうものだと思ってきた


社会、人、家族、全ての集合体…生命は何時も忙しなく外界から受け取ったものを排出しそれを維持し、運営している


だから、その考えそのものが間違っていたのかもしれない。常に生命体は順風満帆ではなく、不安定でグラグラで今にも崩壊しそうな、そんな状況でも問題なく、営業存続できるのかもしれない


瑞々しいトマト、潤い、艶やかな、このトマト


ただ、私は一向に羨ましいとは思わない


そういう無神経な考えが、その発想の源泉が、私を幸せたらしめる何よりの証拠であろうか

最近というのも、雨の存在を忘れていた。本当に綺麗さっぱりに。上から水が滴り落ちてくる現象、そんなものがこの世には存在したなという具合


思えば、昔わたしは雨が好きだった。雨がすきというのは正確ではないかもしれない。むしろ晴れが嫌いだった、という方が適切だろうか…









毎週金曜の夜、お人形さんのようなお天気キャスターに殺伐とした視線をぶつけていた。この女から発せられる言葉は死の宣告かそれとも解放令か…土日を部活の試合で潰されたくないと祈る当時中学生の私にとって、毎週訪れるの緊張の瞬間、恒例の行事だった


或る金曜の夜、夕食の時分、私はさりげなくテレビをつけようとリモコンを探していた。母は作った料理を丁寧テーブルに並べ始めた


味噌汁を運びながら母は言った


「土日は天気悪いみたいね、お布団今日干して正解だったわ」


この瞬間、私はこの込み上げてくる嬉しさを必死に抑えた。そういう風に生きてきたから。母に悟られてはならない。決して


稲妻の如くこの全身を駆け巡る愉悦により、数秒間身体は麻痺し、もはや身体の制御が効かない。


この喜びは何か行動として、なにかに、形として昇華されなければならない。母に私の愚考を勘付かれない範囲での…


私は急いで自室のベッドに飛び込んで、何度も小さくガッツポーズをした。それは本当に絵に描いたようなガッツポーズだった…






気が付いた。意識が、ふと浮上してきた。そんな感じだった。夕食は食べずに寝てしまったらしい。わたしは真横にあるカーテンから出る一筋の木漏れ日を確認した。しかし、さしも格別驚かなかった


晴天だった。すんなりとこの卑劣な現実は、私の中に入り込んで、何事もなかったように素早く浸透し、溶け込んだ。下の乾いた路面を走る車のエンジン音だけが、やたら不自然に私の耳の中で響いた。


冷え切った昨日のおかずを口に運び終え、いってきますと一言、家を出て行った


母は満足そうに、いってらっしゃいとそれに応じた

基本的に

blogを始めて、兎に角楽しいのがアクセス解析


単純なアクセス数をみたり、どの地域の方が多くアクセスしてるとか…どの記事にみなさんがどのような評価を下すのか、わたし気になります!!


僕が今まで書いた記事?(あれは何と呼ぶべきか…)の中で一番反響があったのが、浪人の話です。正確には、浪人というワードは全く話の核心部には関係ないのですが…


わたしが書いているのは基本的にその日に起こったことです、肝要なのが"基本的に"です。正直、わたし自身の身に起こる面白いことなんて年に一回、二回その程度あるかないかです


それは私という人間のアンテナや、センサの精度が悪いとか、人間的な魅力が欠落してるとかそういうことと勿論関係なくはないでしょうが、ぱんぴーでは普通に生きてればまぁそんなもんでしょう


ですから改変します。色々いじって、こうだったらな、ああやったらなぁと。勿論、理性の範囲内で

トリプルチーズバーガーを食べました

津田沼の駅を出る。私はマックに吸い込まれた


長蛇の列、まぁ土曜の昼ならこんなもんか、と思いつつ並ぶ


しかしこれは明らかだった。列の流れが全くと言っていいほど皆無なのだ


私は身体を列から乗り出してレジの方を見た


先頭には一人の初老の男。


店員「ですから、今だけダブルチーズバーガーがお得のトリプルチーズバーガーになるんです


「いやだからわしゃ今日はダブルチーズバーガーの気分でな


「それではダブルチーズバーガーで宜しいですか?


「そのあんたの言う何とかチーズバーガーとは
なんじゃ


「通常のダブルチーズバーガーよりお肉とチーズが一枚多いんです…


「それを先に言えい馬鹿やろうが全然得じゃないか


「申し訳ございません、それではトリプルチーズバーガーに致しますね


「少し待ってくれ………やっぱりダブルチーズバーガーで頼む


正直、なぜこの男が最終的にダブルチーズバーガーを選択したかは私の知る由はない。


トリプルチーズバーガーという物量に単純に恐怖したのか、それとも新参者を受け入れる器が用意出来なかったからか


私は何の迷いもなくそれを選択した

悪魔の実

常にテーブルの真ん中の洒落たバスケットに無造作に置かれているその悪魔


可愛らしく少しひしゃげた球状、柔らかさ、手にfitする安心感…





私は珈琲を飲むため、ティファールで湯を沸かそうと思い、慣れた手つきで浄水を入れセットし電源を入れた。自室に戻り卒論に向き合う


ほんの1分程度、直ちに沸騰を迎える。もう一度席を立ちキッチンに向かう


その時である、悪魔の囁くのが聞こえてくる


その囁きの方向たるはよく分からないが、ただ、その囁きに対してあまりにも私自身が無防備で従順であり、さも自然にその主たるに導かれてしまう


それがあまりにも自然過ぎて、それを体内に取り込んだことすら一片の記憶に残らず、特別それについて考えることもなく。あの悪魔の洗脳を受ける周囲の時間は綺麗さっぱり切り取られてしまう



夜になり、流しで洗い物を終え、その黄色の皮を処理しようとした時にようやく、ようやく私に実感というものが訪れる

パンの名は

手包みクリームパン
手包みあんぱん
手包みカレーパン
手包みメロンパン


このカフェのレジ横にズラリと並ぶ。当然の成り行きと言えば、当然であろうか?確かに、


クリームパン


だけではシンプルすぎる、主張が少ない


手包みという形容詞から暖かく優しい印象を感じさせるだろうか?機械官僚的システムでなく人間的有機的不均一自然感を。そこで何か新しいのを提案したい


これがクリームパン
これがあんぱん
これがメロンパン




これが暇人

浪人はしないほうがいい

大分、これまた昔のおはなし


私が浪人を覚悟した時親父は言った


浪人はしない方がいい


別に平易な言葉かもしれない。今になってみれば、当時の親父が言いたかったことはわかる。勿論、私はその当時はその深い所を理解出来ていなかった


ただ、その意味を理解出来たのは年月月日が経ち、熱が冷め、雑多な経験を積み、高台に上りそこから街並みを俯瞰した時であろうか


歳を取るということはその分多くの経験値を得る羽目になる。羽目になるという表現はある意味で適切だと思う


経験値というのは厄介で、多様な悪しき未来という解を熱心に白塗りのスクリーンに投影し、浪漫の溢れる薔薇色の世界はスクリーンの外に捻じ曲げられてしまう


当時、親父は自分の経験値から悪しき解のより少ない方向に私を進めようとしたかった


ただ、私も同じであった


高校を辞めた生徒にも、やれやれ高校ぐらいでろ、せめて高卒認定ぐらい受け取っておけと散々説教したり…


気付いたら私も経験を元に打算的に物事を捉えるようになっているではないか?