眠れない。
たまには、悪くない。
今日妻が、娘の面倒をみながら雑多なファイルを棚から引っ張り出して書類整理をしていた。わたしは整理というものが苦手なことを理由にこういった類のことはすべて妻に押し付けている。関白っぷりを遺憾無く発揮していく亭主。
といっても、「できないことは無理をしてやらない」というのは、我が家の家訓になりつつある。
だから、まぁそれを言い訳にぼけっと自分はみていた。
ファイルには過去の申請書や手書きのメモ、計算の跡のようなものが無数に入っているらしかった。妻はわたしの筆跡と思われるものがあれば、逐一私を呼んでこれは捨ててよいものか?と確認をする。
わたしは事あるごとに妻に呼ばれて行ったが、結果的に残したものは何一つとしてなかった。
つまり、すべて捨てた。
このように書くと、冷淡な人間に思われるかもしれないが、事実そうなのかもしれない。
それでも、自分の過去に興味がないと嘯くことはしない。そうではなくて、わたしは自分の過去にまったく自信を持てずに生きている、という単純な話だ。どうしようもない。とくにおもしろくもないし、深みもない陰鬱だ。
こういうネガティブな気分になると、昔であったらここで終始して停滞した問答が、最近どうも様子が変わってきた。
それは明らかに娘の存在が大きい。
わたしはかろうじて生きているものの、終わりつつある人間であると感じる一方、まだ始まる以前の生き物がそばにいるというだけで、自分の想いを何か託したいという気持ちが芽生えなくもない。
ただかわいいかわいいと縫いぐるみのように扱っているこの子に、寝顔を食い入るように観てしまう我が子に、つい自分の想いを繋げようと、半ば押し付けがましいことを思慮するに考えたときに限って、わたしはこの子の親であることを自覚する。
親の自覚というものは、公園で我が子の闊達具合を腕を組んでみているときに起こるものではないというのは、意外なものだった。あの瞬間は子供の成長にただ圧倒されまくっているシーンである。
親の自覚は、自分の危険を我が子にやむなく投影してしまうときに強く感じられるものだとそう思う。わたしの問題は、依然としてわたしの問題だから、親の自覚とやらに酔いしれる瞬間はたぶん要らぬものだ。
たまには、悪くないけど。