妻は呑んだくれ酔っ払ってゲロを吐いて寝た。娘はたらふくに、うどんを細かく刻んだものに湯豆腐を食べてお腹いっぱいになって夢見心地である。結構うまそうなもんを食っていた。

 

わたしは、というと、素面で意識もシュッとしてしたが、わたしもわたしで、自分なりの楽しさを謳歌している。

 

一昨日夜同じようなノリ(この時はすこし酔っていたが)で夜中に書いた自分のブログを今読んでみた。自分の作ったものは基本的に読まないタチだが、それが客観的に優れているか、そうでないかは脇に置いておくとしても、非常に面白いものである。うぬぼれではないが、すこしだけこれについて、自分なりに擁護してみたら、このマトモな夜の時間は多少なりとも有意義になるのではないか。基本的には、ここからはわたしのオナニー現場というニュアンスが非常に強い。あしからず

 

この話には全くと言っていいほどにオチがない。オチがないならまだしも、途中で面倒くさくなって投げ出している。私のことを全く知らない赤の他人がこれを読むとしたら、苦行でしかないに違いない。仮に私を知らぬ人間がこれを完読できたならば、その人間は奇人変人暇人のいかにか、おそらく暇人であろうが、それに類する者に属するであろう。

 

まず語りをしているのは、私の実の娘を想定しており、彼女は赤児の知能指数をはるかに越えた存在として現れる。娘からみたこの世界ではこのことは当たり前であり、しごく普通の、ありきたりのことで何の不思議なことではない、というようなニュアンスで物語は進行していく...

これは私が、娘に私自身を語らせたかったからに他ならない。それがこの奇妙な理解し難い設定を招く結果になったのだが....なぜ娘から見た父親を描かねばならぬのか、について腑に落ちないところである。

妻から見た私自身ではならないのか?妻は面白い人間だが、そうはならないのだと思う。それは、妻の抱く感受性について私は常日頃から慣れ親しんでおり、良くも悪くも身近すぎるからである。無意識のうちに意外性や新しさを私は明らかに渇望してしまっている。

一方の赤児に対しては、物理的には身近であるものの、心的な部分に関してはブラックボックスであり、彼女がこれからどんな人間に育っていくのか、どんな人生を送るのか?誰と結婚するのか?そんな事は分かろうはずもなく、全てが未知の神秘的な存在であるからだろう。

それはある意味で空っぽでありまだ何もインストールされていない可能性という余白に満ちた大きな箱だ。私はその綺麗な箱に、酔っ払いの呪いをかけて、あること無いこと、うわ言を喋らせたのである。申し訳ない。娘よ。

しかも、それについて、わたしは見事に失敗している。それは完全に、文体が20世紀初頭あたりのドイツ教養小説群翻訳の影響をモロに受けまくっているように感じる。

古めかしさ、泥臭さ、ダサさを途方も無く感じるが、一方で、その素人感もまた味ですね、一興です、と、今こそフィルムカメラ初心者の異常なまでのあのポジティブさ加減を見習う時かもしれない。ただあの長たらしいクネクネしたやけに冗長で合理性を欠いた、悪戯にのたうち回る太いミミズのような文章が、時間の無駄以外の何者でもないあの文章が、わたしは読んでいて最も馴染み、親しみが湧くのである。不思議なものであるが、これが私の定義なのだと思う。これは個人の音楽性の問題だと思います。

 

ところで、話は変わって、老人や子供にエロスを語らせたくなってしまったのは、何故だろうか?何故だろうか...これは個人の性癖の問題だとは思いたくはないのですが。