やたら最近、妻は悶々としていることが多くなり、布団に寝っ転がってスマホをいじりつまらなそうにしている。ダラダラしているというよりむしろ、身体全体の疲労感に苛まれ身動きが取れませんという状態のようにみえる。

仕事から戻ったわたしは、娘に離乳食を作り食べさせて風呂に入れてミルクを与え寝かし付けつつも、自分達の晩御飯をつくり食べた。

妻はそんなとき、自分は何て駄目な嫁なのだろうか?と不安になる。一日中家にいた自分はロクに寝ているばかりで、仕事から帰った旦那はといえばあくせく働いてるではないかと。そう自分を責め立てるのだ。さらには、自分は昨日旦那に娘を完全に任せて飲みに遊びに行ったでないか?と、さらにはその次の朝は二日酔いで機能せずにぐずぐず寝てしまい...云々と。

わたしは妻がここまで罪悪感に苛まれなければならない要因は何だろかと考えた。なぜ、ここまで制限されねばならぬのか?どんな対象に、どのように縛り上げられてしまうのか?それはわたしたちの無意識下にある善悪を判断する基準そのものが、その二項対立の中で極端に振り切ってしまう状態に置かれているのではないかと。

ここで妻の中では、対立する2項がある。ここでは、それを遊びと仕事とする。仕事に対して遊びは悪を意味し、何かとヒエラルキーが低く頭が上がらない。遊びは卑猥さも含むし、不真面目できちんとしてないが楽しいもので、辛くはなく、ずっとそれを末長く続けたく、よって人間はよく遊んで暮らせれば...というようなことを比喩的にもボヤく。

一方、仕事は高潔だが辛く疲れるもので、何かと早く解放されたく、上司の顔もみたくないが生きる為に必要であり、私たちは何らか働かなければ基本のたれ死ぬので、それは必要なことで真面目に労働にいそしむのは倫理的にも自立した人間の必要条件である...云々と。

ただ、わたしの妻は馬鹿ではない為、遊びや仕事が上のような一面的なモデルでないことを了解しているのだ。了解しているのに、上のようなモデルの元で「遊びと仕事」を対立させて考えている。それ自体の理由は正直よくわからない。ちょうど、遊びの否定が仕事で、仕事の否定が遊びであるように、コインの裏表のような関係性を「遊びと仕事」をイメージする足掛かりとして捉えていることそのものは、人間を病むに病ませるのには、格好の関係の結び方ではないだろうか?それはまさに、遊んでいる自分=仕事ができない自分であり、善なる彼岸に一生到達できない自分であり、そういったことに苦しむのだ。

 

遊びと仕事の関係性は、恐らくはもっともっと永遠に複雑な関係を持っているはずである。遊びも疲れるしずっとなんかやってられないやめたくもなるし、帰りたくもなる、一緒に遊んでる奴の顔も見たくないときだってあるだろう。仕事だって辛い側面だけではない。上司の評価を得れば天にも昇る気持ちになるかもしれないし、努力が報われた気持ちになる。嫌なことを我慢し続けるばかりがずっと延々と続くというほど簡単なものでもないはずだ。

だから、わたしたちは対立関係を極端に簡素化し過ぎるのは自分を否定することに繋がるし、鬱になるということをここに誰のためだか分からぬが、主にわたし自身と妻のために、置いておこうと思う。