2022.4.10

今日は埼玉から愛知県まで高速で昼間の時間をかけて帰ってきた。妻は一週間、実家や祖母の家に娘と滞在したこともあり、慣れないことも多く疲れ果てたようだ。

帰ってからも妻の体調がすこぶる悪いようで、とりあえず夕方に蕎麦でも茹でて二人で啜ったあとに葛根湯を飲んで布団を乱雑に敷いてとりあえず寝て下さいということで寝てもらった。

妻にはすぐに寝てもらったものの、もうひとり曲者がおりまして、それはお姫様である。娘も慣れないロングドライブで機嫌が斜めどころか垂直真っ逆様といったご様子で、噴水のようにミルクを吐き出すわガスが溜まってお腹がパンパンになって破裂しそうなって苦しくなるは、不快に不快を上塗りした2度付3度付した串カツみたいになっていた。

更に向こうで使った荷物、ベビー布団に大量のおもちゃに我々の服に、いただいたお下がりの何かに云々、そういったものが車にパンク寸前のところまで積まれている状況であり、また月曜日である明日からまた仕事をスタートするためにも、多少なりとも溜まった洗濯物をしておかねば辛くなるというのもわかるというわかりみをしみじみと感じていた。

 

こういう、自分自身がそれなりに疲労しているものの、頼れる人がおらず、それでもそれなりに目の前のことを処理していかねばならない、というシチュエーションが結婚してから増えたのだが、そういう時わたしは、いつも自己犠牲モードに機能を切り替えて処理を遂行してしまう。

自己犠牲モードとは、もう分かるだろうが、倫理的に誉められるような機能ではないことはお分かりいただけるだろう。

わたしはこれを技術として運用する、ただのプレーンな技術として。要は麻薬や麻酔のようなものとして、自分の身体にそれを放つことである意味で簡易的にでも麻痺させその隙にMUSTを殲滅するというのが、わたしのやり方なのである。

家事というものを駆逐する精神力は、そういう自己愛を下敷きにしたモチベーションなのである。そういったモチベーションに対して自己嫌悪することもわたしはあったし、今でも勿論ある。が、日に日に技術的側面が強調されると嫌悪の対象から離れ、諸刃の剣ではあるのものの、一種の武器と呼べるものにまでは、そこそこになった。

諸刃の剣というのも、自己犠牲モードというのはそもそも、「こんなことをやってる私かわいそう!なんて不憫なやつだ!」と己を守る作用であり、勿論それは責任という重りからも当人を保護するというシステムを含んでいる。

それは何を意味するかといえば、自己犠牲モードに行われた時に発生した不具合原因は全て自分の責任から逃れるという気分になるというものだ。例えば今日のような状態で私がサンマを焼いたとして、それを丸焦げにしてしまった場合、とうの私は責任を一切負わないという立場をとる。

それは、わたしはこんなに疲労してるのに関わらず秋刀魚を焼き切ったんだ!あなたが体調悪いのはあなたのせいではないしそれは分かるしあなたを攻めるつまりは毛頭ないけど、少なくともわたしだって頑張ったんだ!だから秋刀魚の塩焼きが丸こげになったことに関してわたしはそこまでトヤカク言われる筋合いはないのではないか、といった具合に。

よって、技術としての自己犠牲モードも不具合が発生しそうなことに関して使用することはリスクのあることであり、控えた方が良さそうである。それは倫理的な視点から眺めたからではなく、単に、人と上手くやるという生活の上での技巧の文脈のためにおいてである。