2022?4?6

うららかな春の陽気にうつつを抜かしつつ、ふと目の前の本棚に目を移す。本棚には無造作に大小異なるものがもたれあっており、そこに存在している。あたまがぼーっとしている状態でこの状況を文字通り俯瞰すると、本にまつわるすこし昔の自分の姿を思い出した。

その自分は、大して今と変わらないし、ほんとうに対して変わらないからすーっと通り過ぎるような過去ではあるものの、微妙に異なるニュアンスを、本という固体に対して抱いていたなと思う。

まず、本に対してどことなく貪欲だったな、と初めに回顧した。難しそうな本をとにかく沢山買った。ほとんど読めないし理解できるはずもない。一生懸命それを読もうとした。それでも自分の中に本を取り入れようとした。その繰り返しを自分の成長のようなものだと考えていた時期がおそらくはあった。

おそらくはあった、と表現するからには今はないということなのかというと、そんなことは決してない。

そうではなく、わたしは本に対して真面目でなくなった、という見方のほうが近いかもしれない。不真面目になった。だらしなくもなった。過去のわたしは本が不思議なちからを秘めているように感じていた。本全体がである。本と名の付くものは総じてかたっぱしかそう思った。本は紙だがより神に近い。信仰のようなものがわたしの内部に眠っていた。

本に書かれていることは、いろいろある。野外サバイバルグッズ特集・東京リベンジャーズ・はらぺこアオムシにeggギャル情報雑誌だってあるし川上未映子の小説春の怖いものでもゆるふわ日常系漫画でもなんでもいい。無限に何でもある。これらに共通することは、これらは思想を語っているということである。

過去の私はこれらの思想がそれぞれの本ですべて独立にあるという考え方をもっていた。それがほんとうに意識することなく、少しずつフェードアウトしていった。それぞれが強い強度の思想を語っているように、そうみえていた。それはただ一つでそれだけで自立するもの。すべての本の中で、各々に語られえる世界というものを、全く相互に独立しているふうにそう納得した。それは作者も違えど、描かれる世界も人も場所もスポットも全く異なるから自然である。東京卍会にトポロジーの概念は出てこないし、はらぴこアオムシに真性包茎でつらい思いをしている人々はでてこない。

わたしが本に対して真面目でなくなったというのは、人生垢抜けたとか達観したとか、成功体験ではないし、それを成長と呼んでいいかはよくわからないし、刺激から離れて鈍ったとED的にとらえることもできる。

ただ色んなものを見ていると、この作品は一言でいうと〇〇であの作品は△△だなとかいうふうに思ったりする。単純に捉えようとしてるとかそういうことではない。

別で言い換えるとこの作品は××を○○という視点からみたもので、あの作品は××を△△の視点から眺めたという風に解釈することもできるのではないか、と。

東京リベンジャーズは東京卍会という組織を通して、私たちが頭の中でざっくり了解しているヤクザ社会を描いたものだ。それが共鳴して(頭の中と作品が)、続きをみてしまう。

一方でトポロジーは数学の幾何学的な形の概念を、ざっくりと了解している形の世界に落とし込んだものだ。というふうにも言えなくもない。すこし無理やりすぎるが、すべてのものに対して何らかの共通項をもってくることが、それなりに可能ではないかとすらと思ってしまう。この世界は多分複雑すぎる。わたしたちは一つのものの周りに無数の視点が存在していて、そのもの自体は捉えられないが、無数の視点が描く軌跡だけが映像として映っているような状況を感じている。真実のような捉えられようとしている対象は非常に寛容な物腰なのだが、絶対にそこに到達できないような凄みがあるのだと思う。

そういう意味で、わたしはその寛容さについつい甘えるようになってしまった。だから断然、腐敗したとも言える。だってなんでもありだからである。捕えようと、無意識的にでもアクセスしたものに対して、それを拒まないことを利用した犯行でもある。