会社に行き始めて早いことに一週間が経った。(わたしは半年くらい通ってませんでした。)
会社に半年ぶりに行って何が凄いかというと皆、何事もなかったかのように振る舞ってくれるという点に尽きる。半年前と今が断絶された隔たり、クレバスのようなもので仕切られているのではなく、連続した確かな繋がりがそこに与えられている、ように感じることができる。そこには心地よさすらある。
ただ、それはわたしがそう認識するだけだ。
これは錯覚と言わざるを得ないだろう。
という上記一連の問答をすること、これを忘れるくらいが復帰後の一週間という時間の重みそのものだ。
わたしは当たり前の存在に昇華しつつあった。
いや、寧ろ一週間前の異物感が半端ではなかったのかもしれない。それは周囲の何事もないような振る舞いによって一層際立つものとなった。
が、実際同時に何もなかったのかもしれないと、時々そう思う。だってそうではないか。
私は私の世界である。
と私の中のエセ関西人ウィトゲンシュタインが言う。
主体は考えうる対象ではないんや。主体は世界に属さないんや。FPSのAKライフルを構えたプレーヤー自身はこの世界に所属しないんや。
主体というものは総じてとらえがたい。ポケモン図鑑を開くとスイクンは遠去かるように。そらをとぶで接近すると遠ざかってそしてグイグイ後退していく。
だから私というものを外側として、世界を包み込むもののように捉えようとしたのだろう。
何かのSF映画で地獄は頭の中にあるといった。それを語ったアメリカ人は人差し指でポンポンと頭頂をかるく叩いた。そんなことを突然思い出した。(全体の話はびっくりするくらい忘れた)
そこは確か、世界は言葉で規定されているという前提があった。例えば右腕がもがれても、痛くないという言葉でマスキングをかけることでそれが現実に痛くなくなるということが起こる。イタイノイタイノトンデケー。暗示、呪術のようなイメージかもしれない。
もちろんそんなご都合主義は現実には起こらないかもしれない。が、物語はゲームの前提、低層の原理をダルマ落としのように小槌でスっと抜いてしまった世界で何が起こるか?を実験する場所や機会のように思う訳で、それをご都合主義といってしまうのはやや興醒めだ。
でもそうはいっても、言葉は現実の箱庭に過ぎない。部屋の間取りを描いて家具をしかじか配置するように。それは家具の配置の可能性を模索し続けるものでしかないだろう。それは現実の一部だが、現実そのものを表すものではない。そこにあるボードゲームの上に冷蔵庫を置くこともできるし、玄関に冷蔵庫を置くこともできる。(その可能性を実際にちょっとみたことがあった。)わたしが今、この瞬間日記を書いているという行為もまた見たり体験した過去のピースを配置して眺めて遊んでいるといった状況だ。そしてそれを配置したあと何となく眺めて勝手に悦に浸る。
瀕死状態だった私には言葉によって世界は規定されるという世界観そのものは、そりゃ大層魅力的に映ったと言わざるを得ない。
それは今後降り注ぐかもしれない弾幕に対する痛覚を切断できる可能性があるのだから。それは弱さゆえだろう。
可能性の箱庭が現実に踊り出て然るべき役割を果たす。然るべき役割がどんな役割かわからないが、モナリザからモナリザが出てくる感じかもしれない。(あの人はモナリザなの?か?絶対違う気がしている)
可能性が実体となって現れる、モナリザからモナリザが出てくるのはまぁいいとして、壁として都合の良い可能性を用意する為には沢山の可能性が欲しい。
欲しいし、全体を等しく見渡したい。そこにはバイアスのようなものはない。モナリザと陳建一は同じである。同じ対象。もちろん同じ人ではないけど。実際には陳建一は灼熱中華ジジイでモナリザはニタニタ豊満バストアラフォーだけど。
それは人間の性質の話ではそうなんだが。性質を尋ねるような質問文は陳建一もモナリザちゃん?も等しい。こういうのをウィトゲンシュタインは形式(外的性質)と読んでいた。(一方で世間の性質は外的に対応させて内的性質と表現された。)
全体を等しく見渡したいというわたしの想いはこの形式という贈り物によって成就するように思われた。この形式は初めて目にしたときというのも何でもありなんじゃね?と思った。人類という種という土俵の上では皆んな同じ形式なんじゃないかと。
ただ、多分それは違う。人間はその置かれた境遇によっては聞き出したい性質について、その質問自体が違ってくるのではないか。だから人間なら形式が全部同じというのは少々乱暴すぎるのではなきか。
そう考えると陳建一とモナリザは形式が同じとは言えないだろう。
モナリザに向かって中華料理屋で何年修行したか?を聞いてもあまり意味がないように思う。モナリザ、あんたはイタリアンだ
全体を等しく見渡したい、そんなことを私は言った。
でも同時にそんなことを思ったところで何になるんですの?と問いたい。
形式を見ることは、可能性そのもを見ることではなくて可能性を問うことに違いない。だから実際のところのスペックは加味されない。性質の質問を練るのだから。その答えは何が返ってきても万事OK。といった具合だが...
それって何か自己正当化というか言い訳のような、そんな後ろめたさが背中を伝わないといったら嘘になる、そんな感覚がある。そもそもその全体を等しくみたいという願望は何なんだろう。私情を挟まずに俯瞰でみるということなのだろうか?形式とは客観的にものをみる手段を与えてくれているのだろうか?エゴ的なものを一切取り除いてしまいたいという前提が有るのだろうか。
そんな時に帰ってくる。いつもここに。
私は私の世界である。
主体というのは外側なんだと。それは悩んだりする上での対象ではないんですよ。と。そう教えたくれるのだ。誰かさんが。
何となく、最近はもう思想みたいなもの或いは、紛いな何かの系の養分を自分は必要としてないように思う。一時期は妻に関連書は禁止されていたけれど、エロ本を貪る中学生のようにトイレで読んだりしていた。それでも殆ど意味がなかった。そう思う。意味がなかったと語ることができる。簿記とかQC検定3球の勉強をしたほうが有意義であったことは間違いない。
案の定長居のトイレで便秘だとかテキトウニ誤魔化していたがその内ウィトゲンシュタインを持ち込んでいるのがバレて怒られた。(一応言っておくと妻は、わたしがウィトゲンシュタインで致していると勘違いを起こして勝手に嫉妬しているのではない。たぶん。知らんけど)