2022.4.1

夜中になると、人は^わたしの人生^のようなものを語りだしたくなる。そういう語りをする人をわたしは軽蔑して生きてきたが、気付いたらわたしはそっちの側に回っているという、まぁ割りかし人生においてよくあるお話である。

今宵、書き連ねたいお題は、何故わたしは人生を失敗したか?についてだ。なんかこう、非常にこう、そそらないお題設定である。

そそらないのはまだいいとしても、この暗い知らせが溢れかえる現世に一矢報いる底抜けの明るさというものとは逆のベクトルに振れてしまっている。

ただここはわたしのかなり内部であるが、ここはそんな世間とは独立したひとつの空間であるから、つまらないことでも基本的にはなにをやってもいいのである。

 

さて、何故わたしは人生に失敗しているのか?わたしは恐らくは今、この瞬間(カリモクのローチェアにもたれかかってスマホに向かって一生懸命親指をフィギュアスケートさせている)、この瞬間もわたしは人生に失敗し続けている。

それは何というか、実際に人生ミスったな、という想いが常に嗚咽のようにこみ上げる感覚では多分ない。

それはこんな感覚に近しい。

わたしはパン屋によくおもむく。焼きたてパンが所狭しと並ぶそんなパン屋を想像してほしい。惣菜パンコーナーを覗いてみる。コロッケパン、メンチカツパン、焼きそばパン、どれも美味そうだ。ここのさくふわメロンパンも美味そうだし、チョココロネもぎっしり詰まってて最高だ。

ただ、わたしの胃袋のキャパと経済は有限リソースでしかない。巨漢の資産家でない限りこの制約は存分に受ける。数あるパン中から今一番食べたいコロッケパンとメロンパンをチョイスした!!ムシャムシャこれらを食べる。そして思う。メンチカツパンを食っていた自分の可能性について漠然と思う。

そういう可能性を思わされるとき、わたしは人生に失敗している、そういう風に解釈する。至福の絶頂にいながらも、後ろ髪を引く何かがそこにはたしかに存在しており、無数の可能性に自分が埋もれていたことを実感する、そんな瞬間でもある。

だから、もっというならばこんなことも言える。わたしはそもそも、今日はパン屋チンポールにいったけど...パン屋オチンポワーズのあのホットドッグを食べた自分の可能性まで現れることもあるし、そもそもパンではなく揖保乃糸素麺を啜ったわたしなりの可能性も浮上してくる始末である。

そういう数多のありえたはずの可能性が、後で亡霊のように蘇ってくることがわたしにはある。それは後悔ほど強い感情を伴うものではなく、もっとさりげなく些細なものだ。それは自分の選択に自信が持てなくなり、脆くもグラツき始める瞬間でもある。そういう目眩のようなものの延長が、人生を失敗したと漠然なりとも思わせる正体であろう。