2022.2.6

赤ちゃんの成長は目を見張るものがありすぎる。

日に日に表情のバリエーションが増えるし、授乳量も増えた。目もくっきりとしてきて眼力が格段に違う。

話は逸れるが、誰かからお前は赤んぼか?みたいな説法を仮に受けたとしたら、嬉々として喜ぶというよく分からない自信がある。

それはbaby的な成長にすごく惹かれたからに他ならない。そういう文脈では不快に対して泣くという行為すら簡単に肯定されるべきものだ。

 

大人になると、日頃の生活を送る中で漠然とでも人間的にであったり、何らかの技術的にであったり成長したいと思うことは普通である。

だから、社会人になりたての頃は訳も分からず記号のびっしり詰まった日経新聞(わたしにはそう思えた)をとりあえず購読したし。専門書を片っ端から図書館で借りてきて週末に一気に読んだりした。

例が悪いが、わたしが言いたいことは、情報をアウトプットするかインプットするか?という次元の話ではない。着目するところは、自ら動くか否か、というだけだ。

babyは成長のために自ら動くか?と言われれば、そんなことはない。彼らは基本、すべてを受け入れる。めちゃくちゃ寛容な生き物なのだ。授乳や沐浴のタイミングも親である我々が勝手に決定するものだし、為されるがままな場面は多い。

そして娘は親の人格を基本的には信じる他ない。娘は私が極悪非道の二面性を持っているという可能性を考えない。(現実にはないけれど)娘にとって私は何故だか知らんが身の回りの世話をするいいオブジェクトだろう。極悪の可能性を考えることができないからそんなこと思わないのだろうが、むしろその必要がないからであろう。

そういう受容のスタンスを基本ポジションに置きつつも、一見、受動的とも思われる態度だけかと思えばそんなことは決してない。彼等は自分の快、不快についてもしっかりと主張する機能がデフォルトで搭載されているではないか。

baby的成長、どうだろうか?彼らは職場が合わないと判断したら職を変えるような、ようは自分の意志で自ら労をかけて環境を変えるということはしない。自らはあくまでも頑として、動かない、動じない。それは動けないからだろうという見方は当然として残しつつも、動かない方がむしろ有利な状況とでも思わせるほどである。

そして不快があれば泣く。泣くこと、主張することにより、相対的に環境を捻じ曲げる、というそんな強大な力を娘から感じた。