わたしはこのコンビニの店員と、どうやら馬が合うらしい。なぜ?どうしてそんな風に感じるか?そう細かく問うているうちに、やっぱり何でもないような?台風一過のひんやりした秋風が、うやむやを一掃してゆくように。

秋バテという文言がコンビニの入り口に鎮座している。夏バテのことなら多分よくしっている。秋バテなるものを経験したことがあるのかもしれないが、実際のところはないような気がする。言葉そのものが自分の経験よりも一歩ひいた手前にあるような、そんな軽やかな浮遊感を感じずにはいられない。

秋バテが脳裏をかすめてから、そういえば発達障害というものが、久しぶりに微かに喉元を通過したのはなんでだろう。人の想像力を無償に喚起し固定してしまうものは、経験や感覚より前にシャシャリでてくる危険なものとして、わたしはこの秋バテを、静かに白よりのブラックリストに仕舞ったのだった。

それにしても、レジ横でコーヒーが入るのを待っているときは、どうしても娘のうんこを思い出さずにいられない。わたしは、娘の便通、快便をこの上なく祈る敬虔すぎる信徒であった。わたしの頭の中のうんこが成長し続けてもなお、このアイスコーヒーを待っている時間が妙に好きだったりする。

コーヒーとうんこは私が説明するまでもなくどこかで同調しそうな可能性?を感じることができるだろうが、コーヒーの抽出する段になると、殆ど犯罪的に濃縮された娘のうんこの香りと変わらないアレやという感覚に襲われるのである。

同年代くらいの女性店員が、おぼつかない不慣れな手でおでんの準備をしている。皆んなまだおでんの口になってないようで、やたらと威勢よく肉まんを連打しまくっているが、その内みんなおでんに染まってしまうのだと思うと、その辺りに秋バテに対するおでんの救済!ということを人類は少しくらいは考えてもいいのかもしれない。