呪いのたま

皿がシンクに溢れれば洗うし、腹が減れば料理をする。

 

これらの家事の担い手が妻であるとき、わたしはソワソワとしてしまう。落ち着かなくなり、何か行動を起こしたいと思う。スマホを触って呑気にkindleをみていることに罪悪感を覚え、その場から立ち上がって両手を垂らしてリビングをウロウロする。

そう。あの玉を避けるために。あれは、呪いのたまである。

わたしには、呪いの玉がみえている。たぶん、これは負い目のようなものである。何に対しての負債なのかは正直わからない。負い目の対象が妻であると思いきや、どうやらそうでもない気がするのが不思議なところで、ひとつわかることはわたしはこの得体の知れない塊を過度に恐れている。

 

わたしが家事を行うのは、たぶんこの恐れからである。これは妻という人間に対する恐れではない。外部ではなく、もっと心の内側から鳴り響くもので、とても自分にとって根源的な部分からあの玉が発せられており、真っ直ぐこちらに向かって来るようでもある。おそらく、呪い自体は自分から湧き上がってくるもので、わたしが作り出したものなのだろう。

呪いのたまを受け取った私を外から眺めたならば、このひとは気を遣っているだとか、そういう風に他人からみえるのかもしれないが、わたしとしてはそういうつもりは全くなくて、呪いが足元から湧き出すのを止めるためには、それしか方法がみつからないのだ。自分がその担い手になることだ。

 

妻がいなければたぶんまったく何もしないと言い切れる。皿がシンクにいくら溜まろうと呪いは起きないのであり、サボりつづけて衣食住なる人の基礎的な部分に抵触つづけても、呪いがこちらに向かってこなければわたしは何も行動を起こす必要が感じられはい。そう考えると、なんとも受動的でネガティブな人間なんだろうと思う。

 

でも、同時にこんなことも考えたくなる。それは衣食住は人間にとって結果的なもので、この呪いや負債の心などのじっとりした陰鬱さこそが人間にとって根源的なものであり、この陰鬱さで生活が回っていることについて知らないフリをすること、ネガティブな原動力が人間の生存にとってポジティブに結果的にはたらいてしまっていると考えたら、なんなんだろう。

私たちが普段正しいと思っているその行動するも、その元を辿れば鬱っぽいネガティブな力だってことも考えられなくはないと思う。