2022.4.15

雨の中、祖母の葬儀は取り行われた。家族葬というもので親族以外は誰も集まらずに式は行われた。

生前、祖母は近所にもほとんど知り合いを作らなかった。死ぬまでの5年は施設にいてほとんど話もできずに時が過ぎて死んでしまった。

実際、祖母の取り巻く周辺の話題というのは、いつも陰鬱としていた。それはわたしの母親にとって昔から祖母(父の母)が恐ろしい存在で、何をやるにしても小言を挟まれていたし、兎に角かなり行動を制限されていた。俗に言うところの、嫁姑関係というやつである。だから母はビビっていたのである。そういう見えない緊張感を、幼いながらのわたしでも感じ取ることができた。

10年前ほどから祖母の介護が必要になってから、祖母の面倒を見たのは殆どうちの母親だった。母にもそういう自負はあったし、それは事実だった。母は明らかに、限界ギリギリまで無理をしていたし、祖母の面倒を最期まで見たというものを背負っているので、そこに関わらなかった人達を排他的にみてしまうという思考に取り憑かれてしまっていた。

その対象はというと、祖母の娘夫婦である。母からみれば彼らは何もしなかったよね、と。我が家ではそういう話題が、常に祖母の周辺に渦巻いていて最期まで消えることなく、結局今日を迎えた。

 

わたし自身が今日の葬儀で感じたことは、一言でいうなれば、ほとんど自動化された葬儀というシステムは、結局は親族同士のわだかまりを平坦にならすというか、みかけ上解消する装置のように機能している、そういうように感じたという点である。終わりよければ全て良しという、全てを丸く収める号令のようなものを盛大に発表する一つの場、のような存在が今日の葬儀であった。

ここで私は葬儀のあるべき姿のようなものを、対比的に語らないことにする。それは今日の葬儀は母親にとってはそれなりに報われたという成果が得られたのは多分事実だと思う。

死んだ祖母がその葬儀という儀式の歯車というかお膳立てのようなする格好になってしまったと表現しなければならない。それは祖母の娘夫婦を含む我々全体が、祖母というひとつの故人を媒介にして、その場の一体感のようなものを明らかに共有し、それと社交辞令的なよそよそしさが手伝ってか、絶妙な雰囲気を醸し出して「祖母の娘夫婦にも事情があった」という結論に落ち着いてしまうのである。

これは葬儀というものの、魔術的な一面なのかもしれない。ただ、わたしが言いたいのは、結局死んだ祖母は有耶無耶を解消する生け贄に捧げられてしまったことであり、材料であり触媒であり、そうなってしまったのは、複雑だがやりきれない気もする。

式が終わり実家に一度戻った。段ボールで仮組みした簡素な二段の台に、位牌とお骨を置き、かっぱえびせんを3袋かたわらに置き線香をあげてわたしはまた愛知県にかえった。コンビニやスーパーで、かっぱえびせんが陳列されている棚をみると、いつも決まってばあさんを思い出した。それは今後も変わらないだろう。

そうして、何かを期待してこの文章を綴ったわたしも婆さんを下敷きにした人間のひとりであるということもまた、いえるのである。