両親に連れられて緑地公園にきた。父と母は隣の家族と何やら話し込んでいるようだった。わたしはその間、殆ど放置されており、1人寂しくハイハイ歩きの練習に励んでいた。そこで不幸にも、腰の曲がったあの老人に絡まれてしまったという顛末である...

「あのーすみません。お嬢ちゃん。不届き者でアレなのですが、いや、ちょいと、唐突なのは承知なのですが...エロスを讃美していただけませんか?、大変、図図しいとは存じ上げておりますが」

わたしがエロスの賛美を求められたのは、紛れもなく、潤しき晴天、日曜の公園でのことであった。緑の芝がが陽の光を一身に浴び、きらびやかに柔らかく、時折、強い一閃を照り返すときもあった。緑に覆われた広大な遊び場には人がポツポツまばらに遊んでいる。日曜の公園と言えば楽園、という形容がよく似合うはつらつとした陽気さや、ゆっくりとした南国のような時間の流れ、それらに永遠に浸っていたいと思わせる不思議な魅力を放っていた。

兎にも角にも、そんな日曜の公園を、私は身体全体で楽しんでいる最中だったのだ。

 

先の老人のエロス発言は、恐らくは、独り言の延長のようなところだったのだろう。きっと彼の左手に持つ文庫本(後で分かったがプラトンという古代哲学者の饗宴という作品であった)の世界観に浸り切った勢いがあまりに余って、挙句それを生後7ヶ月にぶつけてしまう暴挙に出た始末であった。

私は、その哀れなみそぼらしい老人にゆっくりと眉をひそめてこう答えた。

「半年ほどしか生きていない私に、エロスを語らせようは、流石に早計ではないでしょうか?本当に私がエロスを語れるとでも貴方は思っておられるのでしょうか?それに」

まさか私が言葉を発するとも思わなかった老人は、真実の口モノマネ選手権決勝さながらの顔だった。私は小声でまくしたてた。

「父と母が向こうからこちらを見ています。彼らの頭は濃霧がかかったように常にぼやっとしてることは否めませんが...私の事をとても大切に想っています。私の一挙一動をああ見えてもしっかり見ているのです。よって、私に付く虫は即座に排除しようとすると思います。それは確実です。現状、両親からは、老人と我が子が触れ合って、何やら老人が優しい言葉をかけてあやし立てている、というさぞ微笑ましい光景が彼らの頭に浮かんでいるでしょう。ただ、実際は貴方が私に求めていること、それは私にエロスを語らせることです。それも、一切のアルコール無しで。会社の飲み会であれば、今の時代セクハラで確実に通報されるのを覚悟したほうがよい案件ですよ。仮に貴方が赤子である私を小馬鹿にして、真面目に答えを求めてないとしても、それは、本当に誠実でしょうか?」

老人は左手に持つ文庫本を閉じてニタリと薄ら笑いをしながら目を満月のように丸くして、言った。

「素晴らしい!何と饒舌なベイビーこと!宜しいです。宜しいです。貴方は人生において然るべき経験をなさっていない。よってエロスを語る力量がまだその身に宿しておらぬということですね?構いません。であれば、貴方はこれから私のエロスの賛美を聞くのです。堪能するのです。それから、然るべき意見を私に雨のように浴びせてください。私の話を聞いてから、ご自身の意見をお持ちになったらそれを表明されても、一向に構わないのです。あなたは、この爺のエロスを糧にしてこれからの人生を渡ってゆけるのです。」

ダルすぎた。私は拒否したのにかかわらず、余計この局面において火に油を注ぐと行った具合なってしまった。この限りなく黒に近い変態爺がエロスを語り出したら、耳をまともに塞ぐことすら困難な私にとって、生き地獄そのものであることは容易に想像がついた。こういう自分の力ではどうすることもできないとき、私は泣けばいいのだということを遺伝子レベルでわきまえていたので、その通りにしたのだった。

まもなく、向こうの芝生からこちらのベンチのある小道の方へ、ひょろひょろと背の高い棒切れのような人間が大股で走って来た。ちょうど高跳びの選手を、着地するマットの後ろ側からじっとみているとこんな感覚に襲われるのだろうか?父だ。父は泣いた私を抱えて、一定の周期で揺らしつつ落ち着くまで辛抱強く待つことができる唯一の人間で、そのことについてはかなり特化していた。反対に母親はそういった辛抱強さという面では父親に劣ったものの、物事の決定や思い切りに長けていた。この家全体の実権を握っているのは母親に違いないことは、生後間も無いわたしにも直ぐに分かった。そういう意味では父は優柔不断で決まったことしかできなく頼りなかったが、正直ではあったし、悪い人間ではなかった。ことに、不必要に敵を作ることを無意識の内に避けるような動きを取ってしまうのが、父その人なのだ。

50mほどゆったり駆けた父は、少し息を荒げたような風を装いつつ、いかにも申しなさげに老人に言った。

「すみません。うちの娘は稀に泣くのです。普段はそこまで泣くことはないのですが。気が強くて、自分の感覚に鋭く正直者なのです。自分にとって強烈な不快感を覚えたときに、このように声を荒げて泣くのです。いえ!勘違いしてもらっては困りますが、わたしが言いたいのは、お爺さん...」

誠実な父はここで一呼吸置いて、変態爺の目をみつつ最大限に言葉を選び、落ち着いて話しをした。

「貴方が、強烈な不快感の源泉だったというようなことを、言うつもりは毛頭ありません。うちの娘の面倒を、僅かな時間であっても、見て下さったのを私は遠くから見ておりましたから。娘にこの世の中には沢山の種類の人間がいること。それらの人たちが優れた思想を持っていたり、逆に娘自身が考えもしないような邪悪な考えに覆われていることもあるかもしれません。貴方が娘に対してどんな言葉をかけていたのか、わたしは存じ上げません。が、貴方の素晴らしいお人柄、人格が少々、娘にとっては刺激的過ぎたのかもしれません。それは貴方を人間的に否定することと、一切の関係がないのです。分かっていただけますか?娘は産まれて一年も経っていないので言葉を理解しません。が、分かるのです。分かるようなのです。私たちも時々感じることがあるのですが、娘は理解できないことをどうやら理解しているようなのです...」

というようなことを、父はわたしと老人の前で慎重に語った。実際に私は両親と会話したことは一度もなかったし、なぜこの老人にだけ饒舌に語ってしまったのか、その理由も自分でもよく分からなかった。

「お父さん」老人は、口角を上げたやけに爽やかな笑顔で続けた。

「貴方は何か、とても私に気を遣われているようですが、不快感の元凶は私という人間そのものなのです。私はこのことをとっくに認めています。そんなことよりも、彼女は、貴方は理解できないことを理解していると申しましたが...それは私も実際に経験したことなのです。エロスの賛美を、貴方の赤ちゃんは明確に断ったのです。」

老人は最後の方はやや興奮気味で早口になったが、誤ってエロスを口走ってしまった己を恥じたのか一瞬で顔が充血したように染まった。

「エロスの賛美?」

「いいえ!」老人は少々困惑した様子で慌てて左手の文庫本をポケットに捩じ込みながら言った。

「エロスではなく、ロースです。アドルフ・ロースについての賛美をわたしが求めたのです。が、それを彼女は明確にあの小さな口を動かして断ったのです。」さらに老人は続けた。

「この際些細なことですが、アドルフ・ロースは装飾は罪と断言した建築家で、その人の本を読み影響を受けたのです。私はほんの冗談で、彼女にロースについて賛美できる点があるかどうか?意見を聞いてみたのです。すこし遊び心が過ぎたと今では反省しております。」

気づけば、わたしは父に抱えられながら、また声を荒げて泣いたのであった。これは意識的な不快感からではなく、もっと違った悪意や真実でないものに触れたときの嫌悪感が直接表現として発露したものに違いなかった。父はあたふたして慌てて私をなるべく落ち着いたリズムで揺することに全神経を集中させた。一方の老人は、やれやれ!元気な赤ん坊だ!と言わんばかりの余裕を浮かべ私をみていたが、その目の奥は何か勘所を突かれて気が気がではないといった様子があった。

(未完)