2021 12 19

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まもなく37週に到達する。そんな我がお嫁様と苺を狩りに出掛けたのでした。37週といえばいつ産まれてもおかしくはないというか、所謂ところの出産適正期であり、このイチゴを摘み取る瞬間一つ取っても破水の始まる見えない予感、緊張感がほんの少しばかりある。ような。

ないような気もする。

日曜の次が月曜日であるという仄暗い不偏の真理を鑑みても、それとは無関係に、無邪気に紅ほっぺの甘さが脳天を貫きぬけ全身を駆け巡った。

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結局、仲良く60個ずつ食った。きもぢわるぃ。

 

食べ放題に来るとその本質が食べた数にいつの間にすり替わってしまう。そう、いくらイチゴの甘味が脳天を突き抜けようとも飽きというものはどうしても来る。その瞬間こそ食べ放題のゲームのルールが突然変異する。飛石を走って渡るように、気がむくままに跳ねまくる。

 

我々は飽きが来ては手近の物を物色して掴もうとするということを永遠と繰り返す生き物であるかもしれない。

そういうような事を考えつつ、お嫁様のパンパンに張ったお腹をみると、まだ見ぬ我が子について果たして飽きがくる日が来るのか?という残酷な想像をしてしまうものの、そんな野暮な想像、そんな瞬間は訪れやしないという直観がかなり後押ししてくれた。

 

いや、寧ろ、私が恐るるべきは、私が飽きてしまう事ではなく、明らかに逆のこと、飽きられることに他ならぬことを....

JKになった娘に冷たい視線を浴びせられるのを、恐れない父親などいるのだろうか....?(そんなことより自分の娘にJKという言葉をあてがうのに途方も無い違和感を感じなくもなかった)

どうしたら娘に飽きられないのだろうか?ただ、一方で私は娘に飽きられないという自信もある。

それは娘が半分わたしで出来ているからに他ならぬからかもしれない。

半分もわたしの成分が入っている件に関しては申し訳なさを感じつつも、娘にはある意味では胸を張って貰いたい。

わたしの性質を受け継いだとしても、あまり世を渡る上で役に立つことはないかもしれない。あんまり人の話に聞く耳を持たないかもしんし、浪人とかも平気でするし、大学も飽きて行かなくなってゲーセンに通いだしたり、股間関連も芳しくないし就活も途中でどうでもよくなってしまうかもしれないし、会社も途中で仕事をほっぽり出してバックれてしまうかもしれない。

ただ、そんな人でも今ココで生きているというこの一点は、どうしても揺るがないし、真実であるように思う。

我思う故に我ありとかのフランスの思想家は言ったものだが、わたしにとって最も疑えぬもの、それは心臓の鼓動を感じること、生きていることそのものである。

 

と、言うような事をぬかしつつ、父親らしいことの一つや二つ語りたくなってしまった私であるが、どうもしっくり来ない。

娘は半分わたしなどではないだろう。

そもそも半分私というのはよくわからない。娘は二色鍋のように私とお嫁様から構成されている訳ではないばずだ。それはもっと混沌としたカオスめいたものだろうし、そこまで単純なモデルに落とし込むことはできないだろう。

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いちご食べ過ぎて手がいつもよりか紅い。