2021 12 26

生活において不幸は、勝手な思い込みからくることが多いであろう。思い込みは自分の記憶からオートマチックに生成された産物そのものであり、そこには真実がいかにも反映されておらず、ゆえに思い込みと命名される。

 

真実ではない記憶から導いた推論や計算を思い込みとするならば、我々が幸せになるには正しい記憶から正しい計算をするか、それともそもそもはなから計算を行わないかのこの二択しかない。

答えを出さないというのも、ひとつの答えの形式として有意義だと思う。

 

そして、計算をするという段取りを踏むとしても、そもそもの記憶の正しさが問われることは間違いない。デタラメなインプットからはデタラメなアウトプットしか通常はでてこない。もし綺麗なアウトプットがでてくれば計算そのものがデタラメである可能性を疑わねばならぬい。欲しい出力が無意識のうちに明確であり恣意的に計算式を都合よく調整していることが考えられる。

 

とにかく、正しい答えを出すというのは途轍もなく険しい道のりだと思う。記憶の解釈や真偽だけでなく計算方式も完全でなくてはならない。そうしなければ、クラスの片思いの女の子に応えるための適切な行動を取ることは、到底叶わない。

記憶もデタラメで計算もデタラメに関わらず、近いし答えが得られてしまうとき、人はこの使った記憶と計算の双方を正しいと思い込んでしまう。そういった経験からまたこの記憶と式を使って別の場合にそのまま適用しようと企む。そして、この企ては見事なまでに失敗するというが、私たちの生活の中で起こる身近な不幸の正体である。

別のことに適用できると考えること、これそのものが思い込みだろう。