2022.4.14

あからまさまに雨が降っている。傘は持っていない。

非常に困るなと思うのだが、よくよく考えると何が困るのだが具体的にはよく分からない。なにか問題があるだろうか?冷静になってみても候補は浮かぶが決定的ななにかはでてこない。名古屋駅の西口からロータリーの脇を抜けて、バスターミナルに向けて足速に走ってはみてはいるものの、なぜ足の回転数が通常時に比して異なるのか、それがわからない。

わからないことをやっている。

というのは気分がいいか悪いかの二項対立で言えば、悪いの領域に属することである。だからそれを分かろうとするのは、別に物事を難しく捉えてすぎてかえって問題を複雑にしているとか、うがった目でみているとか、そういうことにはならないはずだ。

私は高二のときの古文の夏休みの課題のことを思い出した。クズマウンティングを取りたい訳ではないのだが、わたしがその夏休みの課題に着手したのは結局、高二の三月だった。三月といえば春の訪れを感じ始めるくらいには冬は終わり、三寒四温考えたヤツマジ天才!!とよくわからん賞賛を浴びせて微妙にテンションが上がりつつも熊とかも穴蔵での長らくの冬眠から目を覚ましてノソノソ活動すっかと張り切りだすそんな時期なのだが、私は家に引き篭もって前年の夏休みの古文の課題に取り組んでいた。

夏休みの課題というのは、基本的に夏休みにやるというのが一般的な世間の見解として、知られている。わたしはひたすらにボイコットし続けたのだが、それは古文というのが私にとって純粋に耐え難く理解不能で好きではなかった、という意外の意味を持たない。

だから私が高二の三月に古文の先生からの再三の説得に負けて課題に取り組み始めたとき、ただならぬ苦痛を感じた。この身体の動作がなぜなされているかは、古文の先生が私を説得して赤点回避と進級の為に課題をやらせているからと、そのことは十分に行動する所以になるのだが、赤点回避とわたしが課題に向き合うことに何の関係があるのか、明確に理解することができなかったからである。

わからないことをやるのは、苦痛である。私は雨の中、駅前からバスターミナルに向かう時そんなことを思ったのだった。それは、雨に濡れることが苦痛であるというのは、世の中の大多数のもつ感覚であって、わたしの持つ感覚はそれよりもすこしばかり雨に対して寛容さを持っているということではないだろうか。ひとは他者から知らず知らずに影響をうけてマジョリティが自身の身体を侵蝕して、その行動原理にまで影響を与えているというのは割りかしよくある話だとは思うのだが、そのことに気付くのは偶然にせよ必然にせよルーティーンから一歩外に出たときであり、その瞬間はそれなりの絶望が襲うのだが、よくよく考えると何故後悔や絶望が生じているのかが不明確な時に自分はそれに関しては大多数から離れた位置を座していることを相対的に、捉えるのだろう。そういうものの連続が他人との差分として取りだされて自分というものが描けてくるのかもしれない。