11連休

俺は働いていないが、休みの慣性が働き続けたので、結局連休明けの昨日今日を休んでしまった。ただ一日を無駄にしたという気分だけが残った。

仕事にいっても特に面白くなく1日が終わるし、休んだところでゴロゴロ横になって気付けば夕方というのは結局のところ、19歳くらいから何も変わってないし、これからも基本的に変わらないのであろう。休みは永遠の課題であると言わざるを得ない。

休むということは、とても難しい。そもそも、休むということが何なのかもよく分かっていない。昔の百姓(今もか)には週休2日のような概念は無かった。毎日、欠かさずに田畑の面倒をみた。GWも多分ない。でもきっと休んでいないということはないだろうし、人間なので疲れを癒したりリフレッシュしたりする必要は当然あったのだろう。だが、もっと柔軟に休みが取れたことは確かで、まとまった時間ではないが仕事の合間にもっと休みが溶け込んでいたのだろう。

何が言いたいかって、一日という休みは結局のところ長すぎるのである。少なくとも私にとっては土日は無用の長物で、上手に堪能しつくすことができない。

ただ、土日休みという制度も捨てがたい一面をもっているのも確かだ。これを私は「金曜の想像力」と勝手に呼んでいるが、この金曜の想像力が脳にダイレクトに関与する麻薬的な側面を持つことについて否定できないというのは、もう誰もが周知のとおりである。

そして、この金曜の想像力には条件があって、それがこの土日という2日という時間なのだ。金曜にいる人間は勝手に、この2日に対し多大な妄想を働かせることができる。幾度とその妄想に裏切られようが関係無用。平日5日間の苦しみがそれら全て綺麗に水に流してくれるのである。

この金曜の想像力は人間固有の力であるが、それはきっと小難しいことではないと思う。魚屋で売り物の鯖を見れば、その時に太平洋を闊達に泳ぐ鯖を脳裏にイメージすることもあろう。わたしたちは見えない向こう側の世界を常にイメージしてしまう変な生き物なのだ。

よって金曜に属する人間は、土日という時間の箱の中に楽園をクリエイトする。人間の休みの尺度とミスマッチな土日という時間的神話の世界で満足するというのは、到底無理だと言うことにそろそろ気づきたい。