生活感礼賛

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煌々とする照らすリビング。夜。洗濯機はぴたりと唸り声を止めた。この静けさに水を差す存在といえば空気清浄機くらいしかないわけだが、そもそも静かがそれほどまで得意ではないわたしは、逆にこの報われない働き者に一定の賛辞を示したいが、そもそも何を示せばよいのか。

この空間に、悠久の時を感じる広大さやあまり余る自然、それから澄みきった空気や森の息吹や小鳥のさえずりや季節の印、地球の営みを感じることはできない。ここあるのは、投げすてられたカラコンと飲みかけの葛根湯。散乱したご飯粒にジメジメした床と生乾きのタオル。妻のケタタマシイいびきと冷めたコーヒー、娘のとろけるような寝顔とパンイチの私....。

少なくとも、ここが自然ではないということは一目瞭然であろう。が、ここには人間の痕跡がふんだんにあって、その足跡は、まだ新しい。頭の中で、ほんのわずかに時計の針を戻したならば直ちに彼女らの活動が鮮やかに蘇るという気が起こる。

片付けという行為は、衛生上の観点から健康に生きる上でどうしても大切であることは理解しつつも、こうした生きた生の足跡を消去するという側面も同時に持っている。俗に言うところの生活感というものは、この痕跡の豊穣なるものを表すものであり、生活感のない空間というのは人間の香りのしない味気のない物足りなさを感じるというは、少々捻くれているだろうか。