オンライン新年会が開催されたのが昨日。
その昨日。
特にこれといって喋る議題もないないのだが、集まった面々でグダグダテキトーにだべる。
それは何となく足を運んだ日曜の部室で特に理由もない時間が流れるあの学生時代の一節。
こう書き出すと、わたしは過大に思い出に入り浸りをする人間のように思うが、事実そのようですね。
大人になると不必要に理由が付き纏うし、理由がなければ人が集まることはほぼない。
新年会や忘年会という理由にあたるその部分は、一方で煩わしさを感じつつも、思い出を投影するプロジェクターのような装置であるような気がするわけでして、そういった装置が年の何点かに設置されているのは、わたしのように感じる人間がまたいるということが、その理由であるように思う。
そしてわたしは思ったのだが、この新年会や忘年会で語られることは、来年もまた同じことが語られるだろうという予感がある。
「キャンピングカーが山道カーブに差し掛かったときに遠心力で棚から降ってきた味噌汁」
のあのイメージは来年も恐らく楽しく共有されるだろう。
身も蓋もない言い方をすれば、毎年、わたしたちは同じようなことを語り、同じように笑うということなのだけれど。(そう思うとそれもそれでちょっと面白い)
そういう種の笑いは大抵は暗号化された笑いである。暗号化というのは仰々しいが、ようは内輪ネタだ。内輪ネタというとネガティブなイメージを含むがそんなことはない。
内輪ネタを笑うためにはその資格を持っていなければならない。
資格というのは、その記号化されたものを解除するパスという意味で。
では私たちはそのパスとやらをいつ受け取ったのだろうか?事実、そこに笑いがあったのだから、そのパスを利用して解いたわけだから。
そのパスを受け取ったのは紛れもなく、「その味噌汁が棚から落ちてきた過去」に居合わせたまさにその瞬間であるように思う。
そして同時に、当たり前のようなその事実を受け入れた途端に、「過去のその地点に居合わせなかった人間」に対してはまだ鍵が渡されないのでは?という事態が発生してしまうように思えてしまう。
実際、そういう話はありふれている。会社でもむだに2.30年前の話が多い上司はあまり好まれ難い傾向にあるまろう。
それは聞き手が当時を想像できないからだろう。ただ、上司が話そのものを端折りすぎてその時の状況を部下に正しく伝えてられていないというのもあるかもしれないが、部下の想像力によっては笑いへの切符を受け取ることができるかもしれない。
同様にして、この暗号化を解くパスワードになるものは、生活のいたるところで現れてくる。例えば「Netflixで鬼滅の刃を2倍速で再生する人間が多い」という事柄に対して、作品を2倍速で観るのは冒涜だとか色々と声が上がるわけだが、ある一面では、それは限られた時間的リソースで暗号化された笑いへのパスワードを得るためのほんの合理的な手段に過ぎない。
配られたものを受け取るのに時間というものが消費される以上、パスワードを損傷されていない程度に無事に受け取れる範囲で時間を節約するという思考そのもは、そこまで変な話ではないように思われる。
それが破損した鍵でなければ。