んーおっさんが或る別のおっさんを抜き去ったり、サイドバイサイドで、はたまた抜ききれなかったり、そういう瞬間を朝から見やるというのは、決して気分の良いものではないと私はこの歳になって思った。

 

おっさんが前のおっさんをすぐさま抜き去っていくならまだ良いものの、綺麗に抜けずにグズグズして痺れを切らしつつも煮え切らない様子で歩幅を合わせつつもイライラを募らせるのは見るに耐えず、わたしは出社する意欲を即座に失わざるを得ない。幾度となくそれで家に帰ろうと思ったか。その数あまた知れず。逆に抜ききれないおっさんを見てもあまり感情が揺さぶられずに一定で左右されない時は、わたしは会社でも一日中上手くやっていける傾向にあり、抜ききれないおっさんの快歩は私の会社員としての調子のバロメータを示すものとして、一つの尺度になっていった。

 

抜ききれないおっさんは、工場にたくさんいた。そのせいで、わたしは知りたくもない自分の仕事の調子を知る羽目になった。まるでその前をゆくおっさんの背中に透明な硝子がはめ込んであるように、抜ききれないおっさんはそれ以上前に進むことができない。あれ程空いていた距離は即座に一定まで縮まったのに、ゼロになることは決してないのだ。

 

10月から配属された新しい部署。スキンヘッドで限りなく小峠に近い上司。その上司が抜ききれないおっさんの一人であると気付いたとき、わたしは終わったと思いそのまま辞表を出そうかと思ったが、人差し指の爪の間からほのかに香る娘氏のうんこに安寧たる心持ちを思い出させていただきつつ、そんな馬鹿なことを考えるんじゃないと己を律しわたしは昔より自立して生きていられたのだ。ありがとう。

抜ききれないおっさん(上司)が喉を震わせて声を発するのをはじめてみた。かなり上品な声だった。オーストラリアでみたエミューを思った。わたしはこれまで抜ききれないおっさんの誰とも、会話をしたことがなかったのだ。会話どころか仕事をしているとこも目撃したことがなく、彼らは朝どこに消えていくのだろうと思っていた。

そう、彼らが一堂に会すところこそ、わたしの一つだけの新たな職場であり、そこは抜ききれないおっさんがわたしの例の上司だけでなく、彼らの巣窟になっておりまた、彼らのユートピアになっていたのでした。そこでは特段、彼らのいつもの歯痒さをわたしは感じることはありませんでした。出勤時の抜ききれなさは何処にいってしまったのか?不思議に思ったほどです。

程なくして、彼らは会社のシステムであることを認めながら、己の地位を誇りを思いつつ、己の身体は一つとっても会社そのものであり、無機質なこのシステムとして生きてゆく覚悟を決めたのだから己のエゴを極限まで出さないよう努力をしているうちに、そのエゴの存在を忘れてしまった人たち、という見方をわたしはし始めていた。それは、抜ききれないのではなく、抜かない覚悟であり、それが鈍化して今では抜ききれない歯痒さのように映るが、それは覚悟の歴とした痕跡のように思え、わたしは何だか自分が恥ずかしくなったのでした。

そんなこともあり、わたしは彼らを敢えて「抜かない覚悟を持ったおっさん」であると気づいたのだが、更年期に関わらず何かオナ禁を免れないこの表現にはまた、申し訳なさが募るのでした。