ちかごろ書くという操作は何であろうか?とよく思う。例えば、メモを取ること。メモを取るのは何か覚えておかねばならないことをそこに書き留めておくことによって、書き留めた瞬間からの未来に仮にそれを忘れたときの転ばぬ先の杖としての役割を演ずる。
一方で、書くことそのものは、メモのような実務に近いニュアンスを含むことだけでないことにも気がつく。
例えば日記のような存在を思い浮かべてみる。日記は出来事を書くわけだが、感情を伴うもの書き連ねることが多く、報告の様な無機的で冷たいものではない。むしろ、そのとき感じたことを率直に、素直にそこに現前させることに重きを置いたものであるので、そのような性質は帯びようがない。
日記というものにもう少しばかり焦点を当てるなら、日記というもののとても面白い性質がある。日記は瞬間的なものである、ということだ。当たり前すぎる感も否めないが、これは非常に大事な日記の持つ性格であり魅力的な部分でもあり、また同時に面倒なところでもある。
それは感情のようなものがとても時間と固く結び付いているという事実だ。日記をそれこそメモのように書き溜め、後で家に帰って取りまとめようと考えるものなら、後にそのメモは何の意味もなさないことに気づく。後で読んでも自分が何を未来に伝えたかった点でわからんという事態になる。これは、メモの内容の精度の問題ではなく(かもしれないが)、日記を書く主体である私は一瞬一瞬かなりの部分が違った存在であることを示しているということとも取れる。
一瞬一瞬異なる存在であるということを感じつつも、同時に毎朝起きてヤカンを沸かして食パンを口に入れて会社に行くというルーティンをこなすという意味では、まったく逆の結論として私はなにひとつとして時間に左右される存在でないという気も起こる。たしかにそれは時間の周期を大胆に無視しているが、それでも同一性と差異というのは同じ事なのではないかとさえ思う。
「同じことと違うことが同じ」と日本語でいま書いてみたがよく分からない。これはナンセンスな文として断罪されてしまうかもしれないけど、実際にナンセンスにもみえる。私は他人と違うことも恐れるし、同じくらいのレベルで同じこともの話であると思う。違い過ぎても辛いし、同じ過ぎても辛いのだから、そうする他はないし、それで繋いでいくのがやっとでもある。差異と同一の二項対立の中庸が、あまり認めたくないが優秀な妥協点であることは疑いようもない。
違うことと同じことに思いを馳せると、そのグラデーションを考えてしまうのが人間の癖で、そのグラデーションが近さの概念だと思う。