オッサン1000

だいたい、冨樫もヤクルト1000もズルい。彼等は長い間眠りについていたのに(ヤクルトは正直知らんけど)、じっとしていたのに、久々に目覚めたと思えば止まぬ待望と切望と賞賛との嵐とに晒される皆大好き超絶人気者である。

名古屋駅の信号待ち。

一オッサンが車線の狭間の中央分離帯のそれまた狭間にひとつ詰まっていた。そのオッサンは自明に止まっていた。オッサンだから止まっていたのではない。赤信号だから、ただその指示に従っていたのであろう。

対岸で立つわたしは、この信号が青になった途端に、このオッサンは動き出すのだろうということを思ったが、それについてあまりクリアなビジョンが浮かばなかった。

オッサンが死んだように疲れてみえたとかそういうことでもない。オッサンはオッサンでありオッサンであったので、あくまでもオッサンはオッサンを持続していた。オッSingな状態というべく時間が中央分離帯に流れていた。そのオッサン支配的な静止時間がムクリと、水を得た魚のように活動を余儀なくされる瞬間が来るということがにわかに考えられんというようなことを思えば思うほどに、冨樫やヤクルト1000が何となく頭をよぎる。

わたしにとってこの時のオッサンはモノに限りなく近かった。質量は辛うじて備えたオッサンを象ったサムシングだった。物体。ただそれは非生命てきな冷たさではなく、寧ろ戯れのような静かな興奮を与えるものに違いなかった。

突然動き出すかもしれないというオッサンに残された可能性の息遣いを感じるというようなことでもある。

わたしはこのオッサンのプロフィールに関しては何も情報を手にしていないというのに、このオッサンが月に毎年旅行する身分であろうと、一瞬でもその存在そのものに取り憑かれているし、だからこれは任意のオッサンに対して抱くことが可能であり、オッサンという一つの小さなカテゴリを超えて成り立つ存在というものの謎になのであろう。