ぼけっとする

ゆるされたい、という思いがかなりあるということを知った。ゆるされたい。この気分は、承認や肯定という強いものとは異なり、もっとゆるくて大らかな雰囲気をまといつつも、何か自分を強く規制しているものであると思う。

でも、わたしたちは誰に許しを乞えばいいのだろうか?妻か?子か?むかしからの友達か?会社の同期か?先輩か?上司か?或いは、こういう話になると、目に見えないもの、神様のような絶対的なものをイメージするかもしれない。

でも、そんなことは些細なことかもしれない。そもそも、何か悪いことでもしたのだろうか?失礼なことを人に言ったのか?いや、明確に悪いことをした記憶もないし、された覚えもない、それどころか、どちらかというと、わたしは人を避けるように生きているではないか。雲のように、目に見えるけれど遠くのところに在りつづけるそんな佇まいをしつつも、何をゆるされたいのだろうか。

何も考えないでぼけっと宙を見つめるうちに、人は眠りに堕ちる。それがゆるされないのは、なぜだろう。ひとの時間が有限で、わたしたちはいつ死ぬかも分からないからだろうか。日曜のよるに死すら感じる。有限というのは、なにも時間にかぎったことではない。期間限定、初回特典、数量限定そういったものは人の購買意欲を焦らせる、ぼけっとしてた人の目を覚まさせる。

わたしはもう、ぼけっとできなくなる。

わたしたちはただ座って虚空を見つめていることは不可能なのはなぜだろう。それは、椅子に座った身体が余っているから、身体が勿体無いのだ。でも、せっかくあるものを使わないというのは、おかしなことだろうか?気の利く店員がポテトにケチャップを付けてくれたとして、使わないこともままあるではなかろうか。

ただ、身体がケチャップと比較して、魅力的すぎるコンテンツであるという見方はできると思う。ケチャップも魅力的ではあるが。そう考えると、身体は魅力的だし不思議に満ちている。この間、サウナに行きはじめて例のととのうという感覚に出逢ったが、あんなに気分が良くなることはないという程に感動があった。快。

何も閉めることばがないが、今日は寝ようと思う。