サウナ能

ここ10年弱ほど世間を大いに賑わせているサウナに行き、先週、例の整うという新たな感覚に出逢った。


ほどなくしてわたしはメモをとった。所詮はいつもの酔っ払いのたわごと。なにか考えのようなものが浮かんだような、浮かばぬような?釈然としない心持ち。興奮が冷めやらぬうちに帰宅したわたし。サウナというものを日本の伝統芸能である能となぜかリンクさせながら、その日を振り返っていた。

サウナ、ここでは「整う」を頂点としたそれに向かう一連の行為、そしてさらにはその一連を繰り返すことは、この世とあの世を行き来することになぞらえることができる。それは、すなわち能ではないか?とわたしは直感した。能でしかないのだ。
能は死すべき存在、あの世にいるべき幽霊が現世にやってくる(またはそもそも居座りついている?)も、生前の未練や絢爛を、可憐で、ときには悲壮に満ちた舞に託して表現した後、元の世界(あの世)に帰るというものである。おそらくは、その幽霊は旅人が現れるたびに、そこに出現し、その想いのたけを伝え表現することを無限にこれからも繰り返すのだろう。お疲れ様である。
整っても、なおも整い足りないというサウナーたちと幽霊。この世とあの世を往来する同志である。

我々はサ室で死に、さらには水風呂で死に、結局は外浴で蘇生する
2度死に至ったわたしたち。具体的には熱々の窯に焚かれて氷漬けにされたわたしたち。氷漬けにされることにすら順応した身体は、このあと何を求めるのか、ヨタヨタと歩き彷徨う。思考はそこには無い。思考は人間の条件ではなかったのか?それはそうかもしれないが、死んでいるのだからもう考えには及ばない。首が無くなったデイダラボッチのように、身体が本能的になにかを求めているようでもある。
それはなにか、密閉空間にないもの、それこそ、「お外」でしかなのだ。我々が渇望するものはありふれた外気である。

あとは帰るだけである。もとの世界へと。
舞や外浴はこの世とあの世の橋渡しである。能の世界の死者にとっては、あの世こそが帰るべき場所であり、また、サウナーにとっては目を瞑りたくなるような上司のいる現世こそ、愛すべき妻がいる世界こそ、帰るべき世界なのである。