渋滞にハマるのは朝の日常で、今日もそうだった。信号待ちに。暇だから目を閉じて5秒間でもゆっくり数える。1、2、サン。なぜかカウントアップで山頂のファイブに辿り着くや、懐かしい自転車を漕ぐ角張った肩に、黒縁の男が現れる。この男は同じTシャツを無数に揃えているのか、あるいは、このTシャツ一枚しか持っていないかのいずれかであるように感じるが、実際は恐らく毎日全く異なる柄のTシャツではないかと言われれば、そうかもしれない、と。

わたしたちは、生きている。この生きているときというのが問題なのだが、何をみているのか?どこをみているのか?、何をどこまで覚えていて、どれほどまで記憶していて、どの部分が頭に残っていて、昨日と今日との違いは一体何なのか?昨日と一昨日はそれほど変わらないのか?まったく別のものなのか?そういうことについて、一定の答えを与えることはおこがましく無理にしても、その問いすらも発しなくなる。ただ何となく生きることを否定したいわけでは全くないのだが、そこに違いを見出すことが是非ともやってみたい。人生の動機である。

 

身体がしっかり記憶しているのに、意識的にアクセスできないことも多いとざっくりと認めると、要は無意識?に似たようなものの存在を考えると、わたしたちの毎日はきっと、もっとバラエティに富んでいる。わたしは今日起こったことをこうして、記憶を遡って、それなりに頑張って、それなりにエネルギーを費やして書いているわけだが、毎日目にする朝の男が、あの黒縁が今日も今日のすべてを塗り潰すのであるから、あれにはさしたる意味もないことだけは分かっている訳で、どうしても脳味噌から引っ張り出さない現実のような現実を作りたくなってしまうというか、欲求してしまう。

 

自分にとって重要なものが記憶に刻まれるかというと必ずしもそんなことはない。それどころか、どうでもいいことが記憶に刻まれて頭の中を行ったり来たりするのである。これは多分人間のバグのようなもので、人間の生物学的な淘汰的な意味からしても、殆ど意味を為さないのではないか?このバグは説明できない。そして、かろうじて創造性のようなものにこれを結び付けても、やはりしっくりこないのは、やはりバグはバグで、マイナスはマイナスなのだ。人はマイナスに対して、明らかにそうであるものに対しても力を使ってそれを無理やりでもプラスに作用させるようとするが、あの男を思い出すのは、どうしたってそれをプラスにできないのは、わたしの力量不足に違いない。