気づいたら、大人を語ってしまう

今日は娘の保育園の秋祭りに参戦した。本当に楽しい。娘はなぜか緊張している風だったけど、緊張するということにも慣れていない様子で慣れていないことにも、慣れていない様子で。

生まれた間もないうちは、慣れている様子というのが、ない。得意な雰囲気を纏わない。しかし逆に得意な雰囲気を時たま纏うならば、その、ギャップに、落差に、我々親という生物は、容易に萌えてしまう。

大人になると、得意げな感をことごとく求められる。これは信用問題でもある。得意げな感を持たざるは危うく、ぎこちなく、頼りにならない。だから我々は、得意げな身体を拵える。そうすると、どんどん得意になっていき、仕事が分かったかのようになり、人生が分かったかのようになる。

娘はたぶん、まだ分かったことがないのだろう。分かると人間、調子に乗るものだ。分かることは快感なのだ。そんな経験を誰もがすると思う。何かが分かると、他の何かも同じ具合に、同じように分かりたくなる。他のものに同じ型をはめようとする。そうして無理矢理に、ガリガリ強引に嵌め込んでしまうというのが、調子に乗っているという状態で、外型が歪んだとしてもお構いなしという態度が、入れば好かろうというズボラな態度が、そういう素行の悪さが人間の格を決める要素のように、勝手に最近感じている。

でも、一方で、そういう人間の魅力にも気づくのだ。その人には勢いがある。多少強引とも言えないかもしれないが、突破力がある。精緻な動きはないが、荒々しくダイナミックともいえる。理解にも飢えている。

大人の分かるの欲求は、学問的な知的欲求のようなものとは少し違うと思う。分かるは車のドライブに似ていると思うのだ。なんというか、世界が己と一体になり駆動する、味わい深い爽快感と言えばいいか。

わたしはただ、それに付いていくのが、やっとである、

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