つくづく思う。信じるということは何かについて。たしかに、信じるというのは、いろいろな形がある。
わたしたちは自分の中で、強烈にこれはこうだ!と思うことがある。それは例えばちょうど昨日の友人のはなしで、ワタシの誕生日なのに割り勘したよね、と彼女に言われたとしても、それはさすがに割り勘なんてしてないぞい!いやいや、いやいや、流石に誕生日なのだし全部会計は持ったよ!というようなときで。
わたしもすごく共感して似たような経験があると感じた。彼は、別に見栄を張りたいわけではなく、単純に、そんなはずはないとリアリティを持ってそれを感じてそれをそのまま彼女に口にしているに過ぎない。
そんなはずはない!、とリアリティを持って強く胸に迫ってくる感覚、この、絶対的な真実を自分はもってるに関わらず、なんで目の前のこの人間はそれを理解できないのか!と猛り狂いそうになるとき、世界は理不尽だ!と感じるとき、わたしたちは、たった一つのこと、自分の記憶を1番信仰していることを忘れてしまっている。
こんなことを言うと、お前はアホかと言われるが、私はアホなので別に構わない。わたしは記憶を信仰している人間を馬鹿にしたりはしているわけではないし、わたし自身も同じである。仮に記憶を信じていなければ、わたしは常に不安に苛まれることになり、生活困難である。朝バスに乗った瞬間にスマホが無いことに気づく、確かに朝スマホをポッケに入れた記憶はあるが、それは定かではないし、バスに乗る時スマホのSuicaでタッチして乗った記憶もあるが、それは信用できる代物でもない。そして、今スマホを無くしたと思った思考もあえなく過去のものになり記憶になると、それすらも怪しくなり自我が保てなくなる、そして我々は正気ではいられない。
だから、私たちの記憶との距離の置き方、というのは実際難しい問題ではある。記憶を過度に疑い過ぎてしまえば生きていけないし、記憶を絶対的なものだと考えれば食い違いも生じるだろう。
今のところ、信じることの根本に記憶を置いているが、これはひとつのケースしかみていないしもちろん仮にすぎない。今後、陰謀論にハマった人について、記憶、そして経験という別の観点も含めて考察したい。(これも友人の父親が陰謀論にハマったというところからきている。)